【勉強の質向上委員会#1】どうやったら「効率」と「質」が上がるのか。
前、記事で触れたんだけど、公認会計士試験受けるんすよ。
うーん、でさ。
ちょっと真剣に自分と議論をしておきたいなと思って、自分のLABOでかんがえてみようということになっております。
- 「時間(=量)」で負けてんだから「質(=効率)」の向上しか勝機はない説
まぁこれに尽きるよな。
公認会計士の試験って、これ見てくれたら分かるんだけど、20-25歳、25-30歳までで、受験者の75%を占めてるわけよ。
大学卒業済みの人間の合格率が9.3%に比べて、大学在学中の受験生は16.2%もあるわけ。
つまり20代のやつらと基本競争になって、しかも大学在学中で時間が確保できる連中とやりあわないかんわけや。
そうすると確実に時間で負けんじゃん?時間で負けるってことは、量で負けるわけよ。
ってことは、質をあげないと勝機ゼロってことになるわけだ。
質を上げましょうっていって、今んとこ思いつくのは、「復習」とか「朝早起き」とか「効率」とかくらいしか思い浮かばないんだよね。
以下は、それらについての具体的なメソッドを考えたい。
【復習】
復習するのは当たり前だから、問題はそのタイミングだよね。
勉強した日の翌日、3日後、7日後、14日後、1か月後、3か月後、6か月後くらいがいいのかな。
勉強した内容(講義の#や問題集のページ数など)をiPhoneのカレンダーにメモると同時に、復習のタイミングも記録しておけばよさそう。
【朝早起き】
復習に関しては、忘却曲線を思い出して思いついたけど、これに関してはただの直感。
でも仕事から疲れて帰ってきてよ?何が何だかぼーっとした状態で勉強するより、パパっと寝ちゃって、朝熱いシャワーを浴びて、勉強した方がいいっしょ!という熱血漢理論を展開する。
【効率】
これもなー。復習とかなり似てんだろうーけど、若干違うよね。
具体的に言語化すると「二度手間をなくす」ことがそれにあたるのかな。
「問題を解くまでのマニュアル作り」もそうかもしれないけど、それ以上に事務的なこと。
「あの間違えちゃった問題どこだっけ」とか、「俺これ正解してたっけ」みたいなことを一々思い返さなきゃいけないような状況を避けたいね。
具体的には、問題を解いたら、日付と正解の状況を書くとか。なんなら一言メモするとか。
ありかもしれない。
とりあえず第一回目はこんなもんかな。
なにか勉強方法アドバイスがあればどうぞー!!!
重要なのは値ではなく割合。
転出届を出すときに役所へ赴いたときがある。
その時にみた、ペット用のご飯を作って売っていた障害者の方たち、未だに忘れられない。
ものすごい笑顔で、頑張っていた。
あれはあれくらい頑張っているだろうか、社会に貢献しよう!という気持ちが前面に出てるか、内に秘めてもいいから熱い気持ちを持っているか。
世間では常に
「努力するのなんて当たり前、結果が全てだ。」
とか
「正しい努力を正しい方向ですれば報われる。」
とか
「成功者の◯◯の習慣」
とか、
結果主義、成功という甘い言葉で欲を釣る本や雑誌、ウェブメディア、たくさんある。
間違いじゃないと思う。
物々交換では物が腐ってしまうし、価値の基準も曖昧だからお金が必要だってことも。
そしてそのお金がみんなの信用に基づいて成り立ってることも。
そしてより多くの成果を、人類の発展に貢献した人にその信用(=お金)が集まることも。
信用、つまりお金を得る為には結果が必要なこと。
結果を残す為には、闇雲に頑張るだけではなく、時代のニーズと自分の力を見定めて戦略が必要なこと。
すべてわかる。
でもなんつーかな。
そーいう細かいこと抜きにして、知的な障害を抱えた彼らの姿ってのは、心打つものがあったんだよね。
人って、やっぱキャパがあんだよね。
腕がある人とない人じゃやれることの最大値が違う。
考えることができる頭を持つ人と、そもそも考えること自体が理屈上できない人じゃ、やれることは違うよね。
生まれた時から、この世の全てを持って生まれてきた人もいれば、赤子の段階で水に流されちゃったりね。
それぞれベクトルはあるんだろうけど、それでもキャパってあんのよ。
自分ではコントロールできない部分が、やっぱりどこかにあって。
問題はその限界の絶対値じゃない。割合なんだよね。
100しかできない人が100やり遂げてるって凄いじゃん。100%自分のできることに集中してるんだもん。
逆に1000できる人が100やってても、その人にとって10%しかやってないってことだよね。
100のことをやり遂げたって意味では前者と後者は同じだけど、自分の能力をどこまで発揮したかって意味では前者と後者では雲泥の差がある。
知的な障害を抱えて生まれた人が、どういう思考をして、どういう欲求を持つかは俺は知らない。
けど、ペットのご飯を作って、それをしかるべき場所でチームで売ってる。
お金を稼いでる。
彼らのやってることは、それは偉大なことだと思った。
そもそもオレは会社からサラリーをもらうことはあっても、チームを組んで、お金を直接稼いだことがない。
その点で、割合どころか絶対値も負けている。
情けないと思ったし、刺激になった。
だから結局は、生を受けた自分の能力をどこまで光輝かすことができるかなんだろうなって。
そして、あるベクトルではキャパは100でも、違う方面では10000かもしれない。
その能力が時代のニーズとあってなくても、その人の中にある光る部分ってのを自分で見つけて、磨く。
それが大事だと思うし、オレもそれをやりたいし、傲慢だけど人の光るところも見つけたい。
可能性全てを肯定したい。
今現在を生きるってのは、悪く言えば時間をただただ消費するってことかもしれんけど、よく言えば「人類の歴史上の最先端を生きてる」ってことでもあるんだよね。
だったら自分の能力の限界に挑戦したいし、挑戦することで、限界値が100から101になるかもって思うし。
それに100のキャパで100に挑戦してる人がいたら、確実に周りの人が助けてくれて結果として、100どころか1000とか10000にも行くと思う。
自分の中で、光り輝くっていう意識を忘れたくないね。
その光をみんなでシェアして、その光の連続が歴史になって、世代が新陳代謝して、その後光をもとにまた新しい光を繋いでいくようなね。
なんか勢いに任せて書いたらうさん臭くなって草生えるわ。
まぁでも、元来そういう性格なんだろうな。
すでに輝いてる友達、輝こうとして失敗した友達、もがいてる友達、いろんな奴いるけど、俺もそこに張り合えるようにね。
頑張ろうかなって思いましたね。
SNSでマウンティングを取り合う女子たち
Instagram,Twitter,Facebook...各SNSでマウンティングを取り合う女子たち。
先ほど上げたSNSの中でも、主に主戦場はInstagramだろうか。
「実体」をもたない仮想空間で、マウンティングを取り合う女子たちの生態はとても興味深い。
さて、具体例を挙げてみないと、彼女たちの生態を楽しむことは不可能であることから、私のスマホで事例を見てみよう。
- 超高層マンションからの自撮り夜景(なお自撮りでないとさらにマウンティング度が高い。)
- 「大好きな先輩♡」というコメントを添付し、決して彼氏ではないが、相当な高スペックイケメンと映る居酒屋2ショット写真。
- 社会的なマイノリティを気にするOr実際に触れ合う投稿
- 自分のファッション自撮り(なお高層マンションのエレベーターからとればさらにマウン度高し。)
- 欧州・米国への旅行
- 会食での円卓を囲んだ4~5ショット(ワイングラスを持てばさらにマウ度高し。)
- クラブでのVIPルーム写メ(マウンティング度MAXのゴリゴリ半ぐれ男との写メならさらにマ度高し。)
- ブランドのパーティでの謎のデザイナーと話しているところとのオフショット
こんなところだろうか。
これはほんの一事例だ。
その他にも、上場企業役員等との関係をほのめかす投稿であったり、2ショットのもう一方が明らかにブスなのに投稿で過剰にほめたり、世の女子たちのマウンティングが終わることはない。
なお、僕がこの上記の事例をざっと見て思うことは、女子はいかに優れた消費者であるかを誇示したい生物なんだなということだ。
何かを提供する側ではなく、「私は何もしなくてもこんなに提供される」というアピールが強い気がする。
もちろん意識高めの女子(本当に優秀または容姿が劣っておりSNSでの殴り合い市場から撤退したキャリアで差別化を図る勢)はいるが、基本的にSNSマウンティング市場を生業にする彼女たちにとって、基本的には「〇〇される」が重要になってくれる。
ご飯に誘われる、男に誘われる、抱かれる、招待される…
そしてその名詞につく形容詞がよりきらびやかであればそれに越したことはない。
超高級なご飯に誘われる、いい男に誘われる、イケメン細マッチョに抱かれる、ブランドパーティに招待される…
「形容詞」+「〇〇される」が基本的な図式と思われる。
そして、彼女たちもとっくに気づいているのだろうが、実は彼女たち自身も「男のマウンティングの道具にされている」のだ。
「俺はこんなにいい女を連れている。」
「こんなに侍らせてる。」
そういう男による社会への威嚇のツールとして利用されているのだ。
彼女たちはそれを十分わかったうえで、日々若い自分たちに提供されるコンテンツを粛々と享受している。
ただ、提供されるコンテンツも割と似通っているので、男から提供されるコンテンツ以外に、成し遂げたい、経験したいことがでてくると女は初めて自分から行動を起こすことになる。
それが、ジムでのワークアウト、すなわち「いい体形」であったりするわけだ。
こうして眺めてちょっと分析するだけでとても面白い。俺は正直彼女たちに興味が尽きない。
SNS市場で女子たちに金やら名誉やらを提供する当事者の立場ではなく、そこから一歩ひいたところから、彼ら・彼女らを見守るのが趣味でもある。
決意表明&ゲーム引退等のお知らせ
えーと。いろいろ言うことあるんですけど長くなっていいそびれる前に要点を。以下の通り。
- 2018年4月から公認会計士の資格を目指します。
- それに伴って2020年8月までゲームはしばし引退します。
- ブログ&ニュースのアウトプットは続ける予定です。
この3点。
文字通り読んでくれれば分かるのだが、決意表明ということで、ブログの記事として残しておきたい。
かなり自分語り入っていて自分で見てもきついと思うのでご容赦を。。
公認会計士資格の取得について
なぜ公認会計士資格なのか?
「それなり」でこなしてきた先の現状を変えたかったから
正直これが一番強い。別に今の生活に不満はない。それなりにいい学校に通って、それなりにいい成績を取ってそれなりに受験して、それなりに大学へ通って、それなりにそれなりの倍率の企業へ入って、それなりの給与をもらいながら社会勉強をできる。
何の不自由もないと思う。
ただやっぱり「それなり」。
今までの人生を後悔なんて微塵もしてない。
自分が仲良くなりたい人と仲良くしてきたし、自分がやりたいことをやってきた。
そのうえで、そういう環境を壊そうとしてくる奴と懸命に闘ってきた。
ただね。やっぱり「それなり」だったんですよね。
「イージー」「ノーマル」「ハード」っていう手札から、常にその都度その都度「ノーマル」を引いてきた気がする。
そんな「それなり」の選択の連続で迎えた現状を変えたいなと思った。
具体的には、「自分って本気で物事にチャレンジしたことあるっけ?」「自分って本気で自分の気持ちと向き合って闘ったことあるっけ?」っていう気持ちが強くなっていった。
普段Twitterで「ホリエモンに毒されたのかな?」って自分で思うくらい意識高めなことをつぶやいている僕ですが、大学時代までは本当に、先のことを考えずに適当に生きてる人間でした。
嫌味に聞こえるかもしれないけど、友達にも困らなかったし、要求されることは割と中の上から上の下くらいのクオリティでこなすことができたし、それなりにモテたし、好きな女とそれなりにセックスできたし、それなりに自分の自由時間を自分の趣味であるゲームに費やしてこれた。
けど、いつもどこか背中のずっと遠いところから、大きな波が迫ってきてるような。焦りみたいなのがあった気がするんですよね。
就職活動の時期って、あいまいにしてきた自分の気持ちとしっかり向き合えるいい時期だと思うんですけど、その時期ですら自分をごまかして、回答を先延ばしにしてきました。
そういう長年蓄積してきたモヤモヤと、そろそろ闘う時が来たんじゃないかなと。
もうそんなに若くもないし。
いや世間的に、日本的に見たらスーパー若いんだけど、やっぱり若い世代の台頭が目立つわけですよ。
羽生君とか藤井くんとかその他諸々きりがないくらいいるよね。
もちろん業務の性質上比べてはいけないのはわかってる。
アスリートはむしろ若い方が有利だから、20代前半で結果が出てないとむしろやばいし、若手俳優だって最初のブレイクの波がその年代くらいでこないと芽がでないのも知ってる。
ただ、やっぱり焦るよ(笑)
焦ると同時に、「面白そう」っていう好奇心から、ずっと逃げ続けてきた自分に腹立たしくなってきてね。
自分との勝負、世間との勝負。ってことで行動に移したいなと思って今に至ります。
仕事に関係があったから
会計や経理、まぁそれに租税法はじめとして経営学やいろんなことを勉強する必要があるんだけど、すごい仕事に関係があるんですよね。
だから、どう転んでも自分が真剣に挑めれば有益なんじゃないかなって思ったのも会計士資格を目指した理由の一つですね。
ほかの士業と比べて受験のハードルが低かったから
勘違いしてほしくないけど「受験の要件」のことね。
難易度はトップクラスに難しいです。
弁護士とかは、まず法科大学院、俗にいうロースクールね、をでなきゃいけない。
でなくても予備試験を受かればいいんだけど、司法試験に受かった後にも司法修習っていう研修制度があるんだよね。
一応給料はでるんだけど、13万円くらいのはず。
家賃で半分以上飛ぶからそれはきついんじゃない?ってのが本音。
その点会計士は、誰でも受験資格がある。理論上は、小学生でも中学生でも赤ちゃんでも受けられる。多分(笑)
会計士の試験自体は、司法試験とかと似たような感じで、短答試験受かったら3年間は短答試験免除とかいろいろある。
んで筆記試験受かった後も、すぐに会計士になれないのは司法試験と同じ。
ただ、弁護士と違って実務経験が2年以上必要ってことだから、普通に働けるし、給料も出るし、そこがいいかなって思ってます。
いや俺も最初は簿記くらいから始めようかななんて思ってたんですけど、さっき書いた「それなり」でやめてしまいそうな気がしたから、「だったら一番むずいのいったら!」って思ったのがぶっちゃけたところです。
自分の専門分野が欲しかったから
これもかーーーーーーーーーーーーなりでかい。
今の自分の職場の周りの人とか、もちろん優秀な人多いし、仕事は勉強させてもらってるけど、
「あなたってつまるところ何者なんですか?」っていう質問に答えられないと思うんですよね。
60歳だったり、40・50半ばになったりしても、彼らには専門がない。
そりゃ一般人と比べたら多少は専門知識もあるんだろうけど。
市場から正当に評価してもらえるだけの専門知識やスキルは確実にない。
60年で退職してそのあとどうするの?2015年の平均寿命ですら83.84歳だってのに、残りの23年どうするの?って感じ。
自分に需要がない中、年金が出る65までなんとか細々と食いつないで、そこから少ない年金で社会から、外部からの繋がりを失った状態で生きていくなんてとてもじゃないけど俺には耐えられない。
ましてや今の20代が、じじばばになる頃には確実に日本の平均寿命は延びているはずだし、確実に財政は圧迫して年金の受給開始時期は上がっていってるはず。
そんな中で、「何の専門もない」ままおじさんになるのは少々怖すぎる。
定年を無事迎えられたらまだマシ。40やら50代で首切られたときに、何の使い物にもならないまま、資本主義の下、マーケットに厳正な評価を突き付けられるってもう終わりでしょ。
それに大企業や行政機関みたいな大きな保守的な組織っていうのは、「今やってることが正しいかどうか」の答えがでるのが50過ぎくらいからなんだよね。
役員になるのか、出世するのかっていうのは40未満ではまず関係ない話。どんなに将来の役員、社長候補でもある程度の年齢までは「一律見習い」。
自分のやってることが正しいのか間違っているのか、自分が成長しているのかしていないのか。そういうことがわからずじまいのまま、会社の一員として身をゆだねるのに少々懐疑的な部分が自分にはある。
それに会社で評価されたとしても、だ。
社内の評価=市場の評価 ではない。そこにはたいていズレが生じる。
当たり前だ。市場での「できる人」っていうのは「安い投入コストで高い付加価値を産める人」。言葉濁さずいうなら、早く安い原価で、金たくさん稼げる人だよね。
けど、会社の評価での「仕事ができる人」ってのは大抵、「会社にとって都合のいい人間」になる。
社内で上司に必死に説明したり、電話をかけて社内の問題を解決しても一銭にもならない。
極論だけど、安くなったプレミア物を大量に仕入れて、高く売りさばく転売ヤーの方が市場の評価は確実に高いわけよ。
ちょっと脱線したが、「結局のところあなたは何者なんですか?」という問いに、自分が30代、40代、50代になった時に、自信をもって答えられるようにしたい。
もちろん組織に所属しながらも業績を残し、専門を持ち、何者かという問いに立派に答えられる人間がいることも事実だろう。
ただ、正解が分かりづらいから、わかりやすく市場の中での価値を上げてやろう、20代のうちに自分の専門分野をもってやろうというのが正直な気持ちだ。
脱線ついでにもう少し脱線すると、30代以降は、専門分野を持っているだけでは一流層にはいけないと予想している。
今メディアで活躍している人や、周りで生き生きと働いている人は、みんな複数の肩書、属性を掛け合わせている人が多い気がする。
例えば「漫画家」というと、Twitterなどの普及もあってか絵描きは随分と最近は多いが、「医者」×「絵描き」となると一気にレアリティが高くなるように、複数の属性を掛け合わせて市場におけるレアリティを高くしているような気がするんだよね。
YouTubeでも最近弁護士ユーチューバーとかいて、ワイドショーで報道される時事ネタに、法的問題があるのかとか解説していて、それなりにView数を稼いでいるようだし。
とどのつまり、当面は自分の専門分野を持つことに注力するけど、たとえ専門分野を持ったとしても、そのスキルや知識をほかの何かに掛け算する能力がないと頭一つ抜け出せないのだろうなと思ってる。
よく「AIが発達したら事務とか経理とか会計なんて代替される仕事の筆頭でしょ?なんでそんなお金と時間を払ってまで公認会計士なの?」と聞かれる。
ぶっちゃけていえば事務と経理なんて、AIじゃなくても会計ソフトですでに代替されてる。
それでもまだ税理士や会計士の需要が底をつかないのは、「人は結局ソフトより人を頼る」みたいな抽象論をわきに置いておいても、専門的なスキルをもとにコンサル的なポジションをとれているからなんじゃないかなと思う。
例えば、機械の自動処理っていうのは、こちらから何か入力すれば自動で処理してくれるけど、機械側から自発的に仕事をすることはない。
つまり「何が問題かわからな」ければ、ソフトなんて役に立たない。
だからこそ専門的な知見を持った「人」が、いわゆるステレオタイプ的な事務所にこもってカタカタやってる会計士としてではなく、コンサルのようなアドバイザー的な立ち回りをすることで、未だ士業の需要は保てているのかなと思ってる。
ちなみにこれは医師でも弁護士でもなんでも同じだと思うけどね。
社会を知らないガキが知ったようなこと言ってすんませんでした。(白目)
ゲーム引退のお知らせ
会計士の資格はただでさえ超難関なのに、へらへらゲームしてYouTubeライブなんかしながら受かるわけがない。
ということで、YouTubeでのライブはもちろんゲーム全般をいったん、少なくとも受験勉強をする2年間は引退します。
もちろん日常的にゲームの情報を追うこともあるだろうし、ずっとゲームを好きな気持ちは変わらない。
今までの自分の人生や価値観は間違いなくゲームをもとに築かれてきたし、大切な友人や仲間との思い出には常にゲームがあった気がする。
ゲームをしていなかったら繋がれない関係もあった。
そんなゲームとしばしお別れするのはとても心苦しい(特にFF7ReとKH3)が、仕方ないということにしよう。
今まで精神状況を支えてくれたゲーム、そのゲームを作ってくれたメーカーさん、そのゲームに触れる媒体や環境を整えてくれた中間業者さん、そのゲームを一緒にプレイしてくれた人たちに深く、心より感謝をしたいと思ってます。
Twitterでの活動について
これは継続します。
ニュースのアウトプットは自分の成長に欠かせないルーティーンだから絶対やめません。
ただ、勉強関連の話題にどうしてもなるかもしれませんが。
あとくだらない日常の愚痴や、好きなAV女優の話、「ちんぽ、死ね」などの突然の奇怪ツイートなどは相変わらずあるかもしれませんが、そこはご容赦ください。
すべては「わくわくする未来」のために。
あのーいろいろ小難しい理屈をこねくり回しましたが、つまるところ「自分の未来にワクワクできる」、その為にやってます。
会計士の資格勉強は2018年の4月から始まって、途中何回か試験はあるんだけど、順調にいけば2020年の8月に終わります。
もちろんそんな順調にいくわけないし、むしろ順調にいけば社会人と兼業して最高難易度の国家資格なんて余裕で落ちるけど、せっかくやるんならやったろう!という気持ちです。なにより目的は「自分へのチャレンジ」だから。
最終的な夢はチームを作ること
わくわくするもう一つの未来、というか資格取得後の延長線上にある夢として、「チームを作ること」がある。
俺は昔から、友達に困らなかったと書いた。それは間違いないんだけど、だからといってイツメンがいたわけじゃないんだよね。
もちろん親友がいなかったわけじゃないけど、何か同じ目的をもって「熱くなれる」チームに所属したことが一度もない。
「熱くなっている」チームにいたことはあっても、どこかでそういう「暑さ」から逃げていたのかもしれないけど。
だから、将来的にはチームを作りたい。
みんなが同じ目的をもって、その目的達成の為に邁進できるチーム。
そしてその目的がそれぞれが持つ違う夢に繋がっていて。
そしてそのお互いの夢を応援できる熱いチーム。夢の実現に力を貸しあえる実力者のチーム。
そんなチームを作って、引っ張っていきたいと思っているから、それに見合う人間、それに見合う実力をつけておかなければならないと思ってる。
前述した言葉を引用すれば「チームを作る」ことは掛け算だと思うから。
時が来た時に、掛ける値を大きくしておけるように。
自分としては精進していきたいなと思ってる。
なんだかんだいってみんなと人生をシェアしたい。
なんだかんだいって俺はTwitterが好きだし、ほとんど絡むことのないフォロワーさんもたくさんいるけど、俺のなかではみんな繋がっています。
俺は俺の人生をみんなと共有しているつもりでいます。一方通行だとは思いますが。
2020年は東京五輪もあることですし、2020年が楽しみで仕方なくなるような、そんな未来に胸高鳴らせて勉強を、そして皆さんと人生の一歩を共有できたらなと思っております。
最後に
長々と書きましたが、ここまで読んでくださった方がいるなら、ありがとうございます。
タイトルの通り、決意表明。自分に宛てて書いた文章でもあります。
2年後にこの文章を見返して、「俺よくやったな」と思えるのか「全然頑張れなかったよ何書いてんだ恥ずかしい」となるかはわかりません。
が、ベストを尽くしたいと思うので、少々気が向いたときに応援してもらえればなと思っております。
AVでシコって、布団入りながらYouTubeみてごろごろするわ。さよなら。
それをそれたらしめるのは、いつだって「終わり」の存在だという話。
俺たちが高校生だったころ、大学生だったころ、どこかのアルバイト店員であったころ、何かのスポーツ部員だったころ。
それらをそれたらしめていたのは、「終わり」の存在だと思う。
ゲームがゲームたらしめているのは、エンディングがあるから。
学生を学生たらしめているのは、卒業があるから。
いつだってどんなことにだって「終わり」は確かに存在していて、その終わりの存在が、だらしなく延々と続くその「状態」を確かな「完結したもの」に変える。
自分を自分たらしめるのは、自分の死があるから。
死を迎えて初めて100%、そこまではどこまで努力しても、逆にどこまで怠けても自分のストーリー進行度は100%未満。
自分、という存在は完結していない。
仕事を仕事たらしめるのは、その仕事にも終わりがあるから。
ゆえに、終わりの存在なきものは、存在しない。
永遠という言葉はあっても、実態として永遠が存在しないのと同じ。
ただ、学生までは終わりが「誰か」によって設定されているけど、それ以降、「終わり」は自分の手で設定しなければいけない。
自分の手で設定しなければ、新しいものは生み出せない。
それが仕事なのか、会社なのか、趣味なのか。
なんなのかはわからないが、自ら「デッドライン」を決めることでしか、なにかを生み出すことはできない。
と妄想にふける金曜日です。
MISS NOTEを作った話
今日、良記事を発見した。
この記事、ツイートするのは本日2回目なのだが、すごく心に響いた。
— あんどう (@zero_1234567) 2018年2月23日
なにより重要なのは失敗。他人の成功談よりも、他人の失敗から学びなさいとのこと。
就活で30社落ちた中国のアリババ会長が、ダボス会議で語った意外な成功論 https://t.co/PJ6xHZ73wm @eimiyamamitsuさんから
早い話が「失敗から学びなさいよ」っていう記事なんだけど。
え、当たり前じゃね?っていうやつ出てきそうだけど、これが結構むずいのよ。
今はみーーんなSNS見てるから(見てない奴はそれはそれでお察し)、どうしても他人の成功談とか、他人のきらびやかな体験・生活みたいなのが目に入ってくるわけよ。
実際それがSNSでは有用なコンテンツになってるわけだし。インスタだってフェイスブックだってなんだってそう。
結局みんな、見たい・見たくない問わず、無意識に求めてるわけよ。
他人の生活を。もっといえば他人のきらびやかな生活を。無意識に。
だからどうしても意識してしまう。その結果、今の自分の環境と比較して、自身に足りないものを強く感じるようになるけれども、かといって、その不足したものを埋める見通しも立たない。
結果、焦燥感だけが背中から迫り、もどかしい時間を過ごすという。
俺は他人の生活を自分と比較してネガティブにならないほうだけど、こんな俺でも無意識には比較しているはず。
俺くらい無頓着であっけらかんとしてる天然男でも気にしてるんだから、そりゃ世間体の気になるシャイボーイや、周りからの評価がきになる女子なんかはもうぐっつぐつでしょう。
そんな「成功談」に支配される世の中を生きる人間として、この記事には非常に影響を受けた。
今まで影響を受けた人とか、本とか、映画とか、いろいろあるんだけど、それと並ぶくらいには影響を受けた気がする。
成功談に感化されて、何かアクションを起こす。それってもう根っからパリピやらアクティブやら意識高いキラッキラした人間にしかできないことなんだよね。
でも、失敗から学ぶことは、誰にでもできるし、どんなに消極的な奴にもできる。
どんなに怠惰に過ごしていたってどれだけ意識が低いやつだって、ミスはする。
それが仕事上のミスなのか、学校なのか勉強なのか部活なのかは知らん。
けど、ミスは必ずする。
そん時に、次ミスしないように、ってのを考えるだけで、人は成長できるんだよっていうことを分からせてくれた気がする。
そんなこんなで影響を受けた僕は、わかりやすすぎて自分でも笑うんだが、仕事上で「MISS NOTE」を作成した。
つくりは超簡単。
件数、日付、ミスの内容、ミスの原因、再発予防策、マニュアルに組み込んだか、をグラフにするだけ。
こんな感じ。
これに、「あーミスったなぁ」とか、他人のミスを見て「うわあれ俺だったら対応できねぇ」っていうときに、ちょこちょこ分析して入力すると。
個人的にキモなのは「マニュアル化したか」の部分。
ミスを反省して、次起さないようにするのはまぁわかるんだけど、組織に属している以上、「ミス予防に再現性を持たせなくてはならない」んだよね。
平たく言えば、何にも事情を知らない異動者が来ても、ド新人が来ても、そのマニュアルをみていれば俺が起こしたミスをおこさない、っていう状況を作らないといけない。
そのために一々マニュアル化していくっていう作業が凄い重要だと思った次第であります。
長年働いてる人からみたら、当たり前やんってことなのかもしれないが、俺にとってはだいぶ進歩のある気づきのある1日でした。
ゲームと金 を見て。eスポーツプロライセンス発行に思うこと。
今日こういう番組をやっていた。
見ていて面白かったんだけど、結局見てる人は「なんでプロのライセンスを与えるか否かをぽっと出のお前らに決めらんなきゃいけないんだ」ってことなんだと思う。(ちなみに僕は格闘ゲーム業界にどっぷりはまってるわけでもなんでもない、1ゲーマー)
いろいろこねくり回して説明してるけど、この一言に詰まってると思う。
以下は俺の感想を乱雑にまとめたもの。
金が動かなければ文化は継続できない
別にゲームに限ったことでもない。どんな文化も、それが継続して、歴史を築いていくためには、多かれ少なかれ「金が動く」ことが必要になってくると思う。
多くの人が参加していて、多くの人の中で盛り上がりをみせているコンテンツがあるけど、一切金は動きません。
そんな状況でそのムーブメントが何年も続くケースっていうのはまれだと思うんですよね。
宗教でもスポーツでもなんでもそうだけど、なにかしら「集金システム」があって、その集金されたお金が、良くも悪くもぐるぐるその文化の中で動いている。
そういう下地がないと文化として成り立つのは難しいんじゃないかなぁと思うわけです。
今まで「ゲーム」という文化における金の動きは、ユーザーとメーカーの間で発生していたと思う。
メーカーはゲームを作る。ユーザーはそれを買う。金がメーカーに行く。集まった金でメーカはー新しいゲームを作る。またユーザーは買う。
そういう流れで金が動いてたからこそ、僕を含むみんなでゲームという文化を今日の今日まで推し進めることができたんだと思う。
その中で、技術の発展ももちろんあるんだろうけど、ユーザーがゲームを「楽しみすぎた」結果、あたらしい「ユーザーでもメーカーでもないなにか」が生まれてきた。
オンライン対戦環境のあるゲームはもちろん競技性を帯びてくるし、オフラインでも今日議題にあがったドラクエ3のRTAみたいな、ユーザーが勝手にルールを設定してできた「競技」もできた。
それがどうやら「E-Sports」と呼ばれ始めたと。
個人的には、「E-Sports」はユーザーとメーカーの間にある概念だと思うんですよね。
そして、その新たに生まれ始めたEsportsという概念・組織が、ユーザー側に近いものなのか、メーカー側に近いものなのかっていうところに、今までゲームを愛していた人たちはセンシティブに気を揉んでいるのではないかと思います。
E-Sportsという言葉は、ブランディング戦略の一環だと思う
配信の中でハメコ氏が「E-Sportsという言葉を使う意味があるか?ゲームでいいじゃん」といっていて、確かになぁと思った。
個人的な結論としては、「ゲームとE-Sportsという言葉を使い分ける実質的な意味はないが、一般層の受け皿として、ブランディング戦略の一環として形式的に使い分ける意味はある」と思っている。
もともとゲームが好きな人間に、「昨日新しいゲームかったんだけどさぁ」といったとき、ゲーム好きな人間は何の違和感もなくその話に付き合える。
でも電車に揺られるブランド物をもった女性、頭の固い会社の重役、そういった「ゲームになじみがない人たち」に対してはどうか?
おそらく通用しないと思う。
「ゲーム?・・・はぁ・・・」となる。
別にゲームに対して、いやな印象をもっていなかったとしてもだ。
その時に、E-Sportsという言葉を使えば、仮にもスポーツって入ってるし、新しい感じがする。
昔からあるゲーム文化を言い換えただけなのに、さも新ムーブメントのような感じがする。
だからこそ、ゲームに馴染みのない層、もっといえば「今後E-Sportsが発展していくために遡及しなければならないターゲット層」のために作られた「造語」なのだと思う。
現にこのセクションの最初のハメコ氏の「ゲームでいいじゃん」という発言は、至極もっともなのだが、それをいってしまえば野球でもサッカーでも「ゲームでいいじゃん」となってしまう。
一般層の受け皿としての言葉なんだろうなぁと思った。
ただ協会の関係者の方の、説明力がやや不安だなぁと思った。
すれ違いはユーザー側の理屈か、メーカー側の理屈かが生み出す
中盤で、景品表示法に引っかからないためには、第三者からの資金提供か、選手個人の高パフォーマンスに対する報酬かのどちらかのやり方を取る必要があるという話が合った。
その際に、「ユーチューバーなどがゲーム大会に出て、演出をした際、別にプロライセンスを発行していなくても、労務報酬は受け取れる。同じ理論で、大会の参加者も、ライセンスがなくても報酬はもらえるのではないか」という質問があった。
それに対するメーカー側の答えとしては、「大会といっても千差万別、どういった趣旨のものかもわからないし人数の規模もわからない。例えば参加者10人の大会が開かれたとして、じゃあ10人全員と労務契約をしましょう、という行為はメーカー側として、会社としてリスクが大きい。コンプライアンスのクオリティを担保できない。であれば、どこからは労務契約を結んで報酬を出していい人なのか、というのをプロライセンスという形で線引きをした方がいいのでは」というものだった。
この回答は、ずっとあやふやな回答をつづけていた協会からの回答のなかで、初めてうなずけたような気がした。
やはり、ユーザーから見たらだれがどう見ても引っかかる。
「なんで勝手にプロとか決められなきゃいけないんだよ」
「プロ認定されなかったら不都合が生じるんじゃないの?」
みたいな。
とてもよくわかる。
ただ先ほど言った通り、おそらくE-Sportsは、ユーザーとメーカーの中間にあるはずだ。
そこに第三者以外のメーカーが当事者として潤沢な資金を投入するには、プロライセンスの発行という論理は必要なものだったのだろう。
法律を変えればいいという話もあるのかもしれないが、それは時間的なコストもかかるだろうし、このE-Sportsの流れに乗ったまま、規模を拡大するためには必要な制度だったのかもしれないと思った。
いってしまえば「報酬をあげていいかどうかライセンス」だ。
いったんこの辺で。あとから追加あるかもしれませんが、駄文見ていただいた方ありがたや~