ANDOのブログ

気づきとか違和感についての独り言

重要なのは値ではなく割合。

転出届を出すときに役所へ赴いたときがある。

 

その時にみた、ペット用のご飯を作って売っていた障害者の方たち、未だに忘れられない。

 

ものすごい笑顔で、頑張っていた。

 

あれはあれくらい頑張っているだろうか、社会に貢献しよう!という気持ちが前面に出てるか、内に秘めてもいいから熱い気持ちを持っているか。

 

世間では常に

「努力するのなんて当たり前、結果が全てだ。」

とか

「正しい努力を正しい方向ですれば報われる。」

とか

「成功者の◯◯の習慣」

とか、

 

結果主義、成功という甘い言葉で欲を釣る本や雑誌、ウェブメディア、たくさんある。

 

間違いじゃないと思う。

 

物々交換では物が腐ってしまうし、価値の基準も曖昧だからお金が必要だってことも。

そしてそのお金がみんなの信用に基づいて成り立ってることも。

そしてより多くの成果を、人類の発展に貢献した人にその信用(=お金)が集まることも。

 

信用、つまりお金を得る為には結果が必要なこと。

結果を残す為には、闇雲に頑張るだけではなく、時代のニーズと自分の力を見定めて戦略が必要なこと。

 

すべてわかる。

 

でもなんつーかな。

 

そーいう細かいこと抜きにして、知的な障害を抱えた彼らの姿ってのは、心打つものがあったんだよね。

 

人って、やっぱキャパがあんだよね。

腕がある人とない人じゃやれることの最大値が違う。

考えることができる頭を持つ人と、そもそも考えること自体が理屈上できない人じゃ、やれることは違うよね。

生まれた時から、この世の全てを持って生まれてきた人もいれば、赤子の段階で水に流されちゃったりね。

 

それぞれベクトルはあるんだろうけど、それでもキャパってあんのよ。

 

自分ではコントロールできない部分が、やっぱりどこかにあって。

 

問題はその限界の絶対値じゃない。割合なんだよね。

 

100しかできない人が100やり遂げてるって凄いじゃん。100%自分のできることに集中してるんだもん。

 

逆に1000できる人が100やってても、その人にとって10%しかやってないってことだよね。

 

100のことをやり遂げたって意味では前者と後者は同じだけど、自分の能力をどこまで発揮したかって意味では前者と後者では雲泥の差がある。

 

知的な障害を抱えて生まれた人が、どういう思考をして、どういう欲求を持つかは俺は知らない。

けど、ペットのご飯を作って、それをしかるべき場所でチームで売ってる。

お金を稼いでる。

 

彼らのやってることは、それは偉大なことだと思った。

 

そもそもオレは会社からサラリーをもらうことはあっても、チームを組んで、お金を直接稼いだことがない。

その点で、割合どころか絶対値も負けている。

 

情けないと思ったし、刺激になった。

 

だから結局は、生を受けた自分の能力をどこまで光輝かすことができるかなんだろうなって。

 

そして、あるベクトルではキャパは100でも、違う方面では10000かもしれない。

 

その能力が時代のニーズとあってなくても、その人の中にある光る部分ってのを自分で見つけて、磨く。

 

それが大事だと思うし、オレもそれをやりたいし、傲慢だけど人の光るところも見つけたい。

 

可能性全てを肯定したい。

 

今現在を生きるってのは、悪く言えば時間をただただ消費するってことかもしれんけど、よく言えば「人類の歴史上の最先端を生きてる」ってことでもあるんだよね。

 

だったら自分の能力の限界に挑戦したいし、挑戦することで、限界値が100から101になるかもって思うし。

 

それに100のキャパで100に挑戦してる人がいたら、確実に周りの人が助けてくれて結果として、100どころか1000とか10000にも行くと思う。

 

自分の中で、光り輝くっていう意識を忘れたくないね。

 

その光をみんなでシェアして、その光の連続が歴史になって、世代が新陳代謝して、その後光をもとにまた新しい光を繋いでいくようなね。

 

なんか勢いに任せて書いたらうさん臭くなって草生えるわ。

 

まぁでも、元来そういう性格なんだろうな。

 

すでに輝いてる友達、輝こうとして失敗した友達、もがいてる友達、いろんな奴いるけど、俺もそこに張り合えるようにね。

 

頑張ろうかなって思いましたね。