ミクシィのコンサートチケット個人売買サービスが捜査されて事業終了してた件。
すげーわ。こんなことやってたんだ。
ミクシィのコンサートチケットを個人間で売買するサイトがあったらしい
→子会社のフンザが運営していた
→そのフンザがジャニーズ事務所の許可を得ず、ジャニタレのコンサート情報をまとめたサイトを運営してた
→無断商標利用ということで家宅捜査が入る
→フンザはチケットキャンプのサービスの停止
→そのままチケットキャンプはサイト終了へ
って流れらしい。
てかジャニーズってほんとに時代の流れと反してるよね。
まじで悪口でもなんでもなくて。
こんなにSNSが力を持った時代に、SNSで画像を利用させるのもダメなんて。
まあ実際はSNSで画像上がりまくってるし、そんなに規制してなさそうなあたり、事実上SNSでのジャニタレ画像利用は容認してるっぽいけどね。
ちなみにフンザの公式HPがこちら。結構おしゃれです。
チケットキャンプのHPがこちら。
控えめに言って見づらいです(笑)
そして何より面白いのが、「サービス終了に関するQ&A」でサービス終了の理由について一切触れられていないところ。
素直に草生えます。
11.捜査関係者に個人情報の開示はされますか
捜査機関より正式な照会等を受けた場合には、お客様の個人情報について開示を行なう場合がございます。あらかじめご了承ください。
これがさらに草。
こういう時に「利用規約よんでねぇ~」ってなりそうだし、明日は我が身で少し反省したわ。
てか「チケットキャンプが終了して困ってる層いんの?」っていう血も涙もない疑問が浮かんだのでTwitterで検索してみました。
チケキャン閉鎖で一番悲しいのは、高額転売問題にかこつけて低額転売も潰されちゃったこと。個人的には、暇な日に「推してないけどめっちゃ安いし行ってみるか」みたいな買い方できなくなるのが悲しい。公式のチケトレは価格自由性がないので、完売してないチケットは売買できないし。
— コウイチ (@rbkouichi) 2017年12月27日
一応いましたね。やっぱりコアなファンの方たちには結構需要あるっぽいな。
にしても
チケットキャンプ公式の「上場会社ミクシィだから安心」がさらに草が生えますね。
今年一年仕事で学んだこと
- #1.ルーティンに頭を使わない
- #2.上司が何に気を使っているかを察する
- #3.主張には反論や突っ込みを予測して根拠となる事実を用意しておく
- #4.金をもらって仕事を学ぶという意識
- #5.短期では理屈、長期では人間性
#1.ルーティンに頭を使わない
どんな仕事でもそうだと思うけど、「公約数」があると思う。
「絶対これは外せない作業だよね」ってやつ。
そういう仕事、というか流れ作業にも本来やる意義みたいなのが一つ一つあって、ほんとはそれを一つずつ確認しながらやってかなきゃいけないんだけど。
でもそんなことやってるとまじできりがないんで、リスト化したり、作業工程をテキスト化して脳死状態でもできるようにしておくことが大切。
考えることでエネルギーは消費しちゃうわけで。しかもエネルギーは1日に限りがあるわけよ。
そうすると、「さすがにこれ一々考えなくてよくない?」という仕事にはできるだけ労力を使いたくないから、タスクリストとか、チェックボックスを作ったりして、テキスト通りこなしていれば完遂できるようにしておきたい。
基本は流れ作業で、例外的な部分だけ頭を使って意識できればいいけど、理想は「例外を意識することもテキスト化して自動化」したい。それができればほんとによだれたらしながらもれなく一日のマストな部分は消化できるはず。
俺は「出勤したら〇〇をすること」「〇〇をする前に△△をやったか確認すること」みたいなことをずらーーーーーーーーーーーーーーーーっと8ページくらいのワードにリスト化して、それをバインダーでもって工場のおっちゃんばりに「よしっ・・・」ってチェックしてます。これをやると面白いくらいに一日のマストな部分が消化できる。
#2.上司が何に気を使っているかを察する
よく勝負事で「やられたらいやなことを考えて、それを相手にやれ」っていうけど、その逆。
上司が「これいやだなぁ」「これ心配だなぁ」ってことを察して、そこをうまく通るような企画書、提案書、決裁を回すとよいと思った。
これをちょっと応用して、あえて突っかかるところ、上司が解決するのがおっくうになってるところを用意しておいて、そこに対して完璧な対応をみせることで「俺、その問題解決しちゃいましたよ」アピールをする手法もあったり。
#3.主張には反論や突っ込みを予測して根拠となる事実を用意しておく
個人的にはことし学んだことの中で一番熱かったね。すげー当たり前のことなんだけど、一つ一つの主張・アクションにこれができてるとほんとに一日が楽。
書類上のやり取りとか、仕事上の相手との駆け引きはもちろん、相手の反応もそう。
相手の反応を予測したうえで、それに対する「答え」をもっておくと、その通りの反応が来るともはや気持ちいい(笑)
〇〇さんに頼みごとをするといつもいやそうな顔してきて日々ムカついてるとしよう。
正直そんなこと解決しようがない。
でも、「これ〇〇さんに頼んだらこんな顔するんだろうな」と予想して頼むだけで、いやそうな顔されたとき全然違う。
「やっぱそのリアクションしてきて草」とか、「そんなリアクションも持ってるの?」とかいろいろ見えてくる。
コミュニケーションというより人間観察みたいになってくる。
#4.金をもらって仕事を学ぶという意識
仕事がいやになるときが今年もたくさんあった。
汚い部屋から出勤して、夜遅くまで残業して、やりたいことをなにも消化できずに散らかった部屋にもどってそのまま寝てまた出勤…なんてことをしてる時には「何やってんだろ俺…」なんて言うことも思った。
けど結局「金をもらって何かを学んでいる」という事実は動かん。
だからいやなことあっても、「金をもらって成長できる機会」にいることを忘れちゃだめだってことっすな。
これは結構自分の心の支えになってますね。
#5.短期では理屈、長期では人間性
最後、いっつも思うんだけど、最後は人間性な気がする。
仕事をするうえで、理屈が超重要だし、どんな嫌みったらしいいい方をされても理屈が正しければそれは正しいし、超優しい言い回しでも言ってることが間違ったら元も子もない。
だから理屈は超大事。
けど、最終的には人間性だなって思った。
これは演繹的に考えてるわけじゃなくて帰納的に考えに基づいた仮説なんだよね。
色んな上層部の人間とかそれなりの立場にある人たちを見ると、みんな人間性ができてる気がすんだよね。
ゴミみたいなやつでも確かにちょこっと出世はできるかもだけど、ある程度出世したり稼いだりしてる人はみんな人間性ができてる気がする。
という。
「おしゃれに見える」ではなくなぜ「インスタ映えする」というのか。
言ってしまえば、
「おしゃれに見える」は、「私からみてあなたはおしゃれに見える」ということだ。
でも、
「インスタ映え」は、「私のみならず、SNSでたくさんの人からおしゃれに見えそう」というニュアンスがあると思う。
「おしゃれに見える」は「個人の感想」のようなニュアンスがあるが、「インスタ映え」はどこか「他人事」で客観的な評価のようなニュアンスがある。
「可愛いね」と「モテそうだね」と同じような違いがある。
「可愛いね」と直接的に言われると、最近のコミュニケーションを避ける傾向にある現代人からしたらなんか距離感が近いような気がする。
だが「モテそうだね」なら、どこか「俺だけじゃなくてみんなから」みたいな、ちょっと遠いところから距離を置いて褒めているような感覚がする。
その発言から、「え、彼って私のこと可愛いっていってる?!」と誤解するのもよし、「あ、ありがと~(棒)」と受け流すのもよし。
いう方も遠回しに好意を伝えているのか、本当にそう思っただけなのかはわからないが、拒否された時のダメージが少なく、「いわれる方もいう方も無難」なのだ。
かくして「インスタ映えするスイーツだねぇ~」みたいな会話が使われるのだ。
これは男女間だけではなく、殺し合いのような気のつかいあいが行われる女子間の会話でよく使われる気がしてならない。
2匹の愛犬の物語。
眠れないので書く。
俺と飼っていた2匹の犬の話。
俺は昔犬を2匹飼っていた。
1匹は犬というより動物といった感じで、人に媚びず、犬同士でも群れない、孤高の犬だった。
もう1匹はとにかくやる気のない甘えん坊な犬。
この子もある意味群れない犬だったかもしれない。散歩は意地でも嫌がるし、ご飯と睡眠が大好き。そして飼い主がとにかく大好き。
そして飼い主がどんなに忙しい状況であれ膝に座って寝て動かない。
最初は苛立ちもあるが、段々と心地よい諦めが襲ってくる。
1匹目の子は撫でるのにも一苦労。機嫌が悪いと噛みつかれるからだ。
それでも愛してやまない。愛さずにはいられない。
それほどに犬は愛おしいのだ。
犬は人の気持ちがわかる。これは本当だと思う。
学生の頃、悲しいことがあった時、廊下で一人で泣いてたら犬は近寄って慰めてくれた。
自分が笑顔の時、どこか彼らも楽しそうでウキウキしていた。
彼らはいつでも嫌が応にも俺の気持ちにリンクしている。
そう感じた時から、俺は彼らの前では暖かい優しい気持ちでいるよう心がけた。
すると彼らも同じような気持ちになるからだ。
気づいてみれば、自分も明るくなっていることに気づかされる。
彼らを想うことが、結局は俺のためにもなっていったのだ。
俺が学生の頃に、1匹目の犬が死んだ。
あんなに孤高の王みたいなあの子がみるみる痩せて、大好きなご飯もろくに食えなくなってくるあたりからなんとなく察していた。
でも他人の死とはまるで違う。ドキュメンタリーを見ている時とは比べ物にならない。
察してはいるけど、察したくない。
逃げちゃダメなんだけど逃げたくなる。
でもちゃんとこの子の最後に向き合っていたい。
いろんな感情が戦っていたのを覚えてる。
大好きなワンコの最後なのに、どうしても逃げ出したくなったら、ご飯をなかなか食べなかったり、部屋をうんちまみれにしてしまうところに、少しイラついてしまう自分がとにかく情けなかった。
当たり前だろ。
言葉は悪りぃが死にかけてるんだ。
お腹に力が入らないのなんて当たり前だ。
うんこだって出ちゃうよ。
食べたいけど喉を通らねんだろう。
そんな当たり前のことに、なかなか気づかない。
いや、気づいていたけど目を背けてたのかも。
そんな自分が嫌だった。
どんどん迫り来る愛犬の死期と、そんな愛犬を時折大事に思えない自分が怖かった。
そしてその時が来た。
俺は亡くなる瞬間に立ち会えなかった。
なんなら飲み会に出かけてた。
帰ってきて、動かない、冷たい愛犬を目の当たりにした。
大好きだった。
そんな愛犬がもう動いていないのだ。
死ぬってなんだろう。どこからが生きていてどこからが死なんだろう。
歩きたいのに起き上がれない彼を起こしてあげてる数日前まで彼は生きていて、少し動かないだけで今日は死んでるらしい。
まだ暖かいのに。
途方もなく泣いた。
俺普段あんまり涙出ないんだけど、本当に泣いた。
本当はすぐに火葬してあげたらするのが良いのかもしれないけど、その日は愛犬の亡骸と寄り添って寝た。
冷たかったけど暖かった。
そしてどれだけ俺の心の支えだったかを知った。大切な存在だった。
物心ついた頃から彼を飼っていて、俺が学生を卒業するくらいまでずっと生きていた。
俺はまだまだ未来ある年なのに彼は10数年間で死ぬ。
なんて不公平なんだろう。
俺は彼ほど誰かに希望を与えられたことがあるだろうか。
罪悪感にも近いものを感じたし、「これから悔いなく生きていこう」という決意は贖罪にも近いものがあった。
そしてつい去年。
2匹目のワンコも死んだ。
ご飯と睡眠と家族が大好きで、運動が嫌い。
まん丸い体が同じようにみるみる同じように細くなっていく。
1度経験したことがあるけど、慣れるものじゃない。
どうしても慣れられない。
でも、部屋をうんちまみれにされたり、なかなかご飯を食べなくても、根気よく、笑顔で掃除できるようになっていたし、うんちまみれになった時、ワンコの足が汚れないように靴下を自作で作ったりできるくらいにはなっていた。
全然効果なかったけど。笑
ごめんな、1匹目の愛犬。お前の時はそれができなくて。
犬は人の気持ちがわかるから、イラついてる俺の気持ちもわかってたんだろう。
そう想うと今も後悔が尽きないし、悔しさでいっぱいだ。
でもそんな貴重な経験をさせてくれたのも彼だし、とっても感謝している。
2匹目のワンコが死んだ時は朝だった。
ずっと具合が悪かったから、リビングで一緒に寄り添って寝ていたんだけど、朝起きたら既に無くなっていた。
朝方まで起きてて、6時に起きてまだ暖かったから、おそらく起きる数時間前に亡くなったんだろう。
また立ち会えなかった。
今も後悔が残ってるけど、24時間起きてるわけにもいかないし、なんだか死ぬのをこれ見よがしに待っているような感じもするから、これで良かったのかなとも思う。
ただ、同じ時間を過ごして、ご飯を食べて、寝る。
それだけでいいのだ。
2匹目がなくなった時も途方もなく泣いた。
一日中泣いたんじゃないかな。
もうなんでこんなに涙が出るんだってくらい。
てか普段どこにこんな溜まってんだよって。
正直、辛すぎて、なくなった時のインパクトが強すぎて、それ以降の火葬とか、お葬式とか、あんまり覚えてないんだよね。やったんだけど。
本当に人生で大切なことはあらかたワンちゃんが教えてくれた。
想いやりの気持ち。自分を好きであることが、自分を好きでいてくれる人を喜ばせることに繋がること。
見返りを求めない無償の愛。
そして死。
本当に人生って一回きりなんだなって。
犬だから人生じゃないな。
そう考えると人生って言い回しなんか傲慢だな、別に人間だけじゃないよな。命が一回なのは。
命が一回だということ。そして誰かを、なにかを愛することがとても素晴らしいこと。
自分の一度しかない命に、真剣に向き合っていかなくちゃなって思ったし、今でも思い出している。
週に一度は遺骨に線香をあげているのだけど、その度に思う。
彼らに顔向けできないような情けない人生は送りたくないなと。
天国があるなんて思ったことないけど、死後の世界がなんであれ、彼らが今日も彼ららしく、幸せな夢を見れていることを切に願う。
はあちゅう氏を筆頭にしたセクハラ告発ブームに思うこと。
最近凄いムーブメントになってる「#metoo」。
世界ではすでにだいぶ前から話題になってて、アカデミー賞俳優のケヴィン・スペイシーが性的告発をされたりで大騒動となってた。割と日本でもNetflixの「ハウス・オブ・カード」とかSe7enのジョン・ドゥ役とかでなじみ深かったからワイドショーとかでやってたんじゃないかな?
でも実際は世界でのムーブメントだった感があった。
「この閉じられた閉鎖的な島国で#metooなんてタグつけて告発するバカがどこにいるんだ」みたいなセクハラ親父の勝利宣言が高らかに聞こえてきそうな感じすらあったが、最近風向きが変わった。
はあちゅうさんはブロガーとしてもともと著名で、学生時代には企業にスポンサーをつけてもらって世界一周の旅なんかにもでている。
今は電通をやめて著名ブロガーとして活躍中な彼女が「電通時代にひどいセクハラ被害にあっていました」的な告発(というと大げさかも)をしたのだ。
詳細は下記の通り。
この記事は大反響を呼び、SNSではちょっとした事件に。
相手の名前も実名だし何より業界では著名人らしい(俺のような底辺はしらない)。
それに証拠画像などもメディア側に渡し、関係者への取材で裏どりを取り終えたうえでの記事掲載。
ぽっとでの「ブログで元上司の文句を書いてやる!」みたいな記事とは訳が違う(自戒)。
これを皮切りにいろんな人が口火を切り始めた。
「高橋まつりさんが亡くなったことどう思う?」「君みたいな容姿が綺麗な人がハキハキ意見を言うのが気に入らない」「女を武器にしている」「化粧が濃い」「スカートが短い」
— 町田彩夏/まっちー (@Ayaka_m_y) 2017年12月17日
どれも電通の選考中の言葉です。今まで怖くて黙っていたけれど未来の就活生がこんな想いをしないように声をあげます。 #MeToo
小6年の時、男性教師の目の前で、女子の身体測定が行われました。上半身裸でした。教師は間近でそれを眺め、子どもたちの乳房の大きさを比べ、平らな体つきの私を嘲笑いました。生意気なこと言ってもぺちゃんこだな、と。その辱めは私を壊しました。一生許さない。 #MeToo
— 小島慶子 (@account_kkojima) 2017年11月27日
最初こそ
「お、これは祭りか?!」なーんていう2ちゃんねらー全開の第三者視点で見てたんだけど、やじうま程度に記事の内容を見るとどうにも重い。予想以上に重いのだ。
今日は気分がいいからピンサロいっちゃお~♪なんて気分で言ったら1万5千円請求されるくらい予想外に重い。
当たり前だ、記事の中身は「はあちゅうの#metoo告発でようやく勇気を絞り出して書いた後ろめたい過去」なのだから。
もちろん#metooの意味するところは男性からの女性へのハラスメントだけではないでしょう。
男性権力者からの同性へのハラスメントも同じだろうし、女性から女性へもあるだろうし、女性から男性へもあるんだと思う。
こういう記事を見て思ったのは「予想以上に蔓延してるな。」ということ。
そして次に「自分がいる状況も物的証拠がないだけで似たようなもんだな」ということ。
先ほど張り付けたはあちゅうさんの記事を読んでもらえれば分かるが、彼女にセクハラした岸氏は、はあちゅうさんにラインをテキスト媒体で送っていた。
そういう物的証拠があるけど、普通に慢性的なハラスメントを受けてる人からしてみればそういった証拠はなかなか得られるものではないだろう。
ハラスメントをする側もラインを線引きしている可能性がある。
そうなるともう特定は難しい。
なんなら「何もしてないのに上司にハラスメントだと濡れ衣を着せようとしている気が触れた最近の若者」みたいな感じに扱われてしまう可能性すらある。
仕事をやめれば食い扶持がなくなる…という人が大半だろうから、仕事を失う、または仕事上立場がなくなるリスクを考慮すれば中々物的証拠のないハラスメントを告発できない。
そうすると「泣き寝入りしているハラスメント」は予想以上、いや、予想以上なんていう言葉じゃ形容できないくらい多いんだろうなというのが本音だ。
俺ら労働者に与えられた選択肢なんて言うのは
1.我慢する
2.未来はわからんが戦う
3.未来はわからんが逃げる
くらいしかない。
大半、体感85%くらいが選択肢1だろう。
次に3かな。体感10%くらいか。
残りの5%が選択肢2。
申し訳ない5%も戦っているとは思えないので自殺と戦う合わせて5%くらいな気がする。
どれもいいとは思えない選択肢だけど、1と3を併用したやり方がいいんじゃないかなとは思う。
我慢しながら逃げる準備をする。
これをうまく表しているのがブロガーのヨッピー氏の「明日クビになっても大丈夫!」である。
結局は「変化を恐れないこと」、いやむしろ「積極的に変化することに挑戦すること」が一番最適解なんじゃないかなと。
生物は変化に適応できるものが生き残る、というのは大昔から言われているけどその通りだと思う。
そして変化に適応できるとしたら「もとから変わり続けられる人」かそうでなければ「意識的に変わろうとする人」しかだめだと思うんだ。
今の仕事場が良くても明日どうなるかわからない。
とんでもないセクハラパワハラ上司が異動してくるかもしれないし、なにがどうなるかなんて誰にも分らないのだ。
だから「常に変化する。それも好んで。」これが凄い大事だと思う。
そしてたいていは三日坊主で終わっちゃうから、変化するには「環境を変える」。
これに尽きる気がするね。
付き合う人を変える、住む場所を変える、仕事を変える。小さな変化から大きな変化まで何でもいいけど環境を変えれば自分も変わらざるを得ないから。
失敗したらアウト!っていうほどのリスクを負って変化をするのはばかげてるけど「まぁ失敗してもいきてけるでしょ」くらいの範囲で変化は続けるべきなんじゃないかな。
結局のところ、たいして何も考えずにハラスメントしてるやつらに対して、被害者側はこんなに頭をあれこれ働かせなきゃいけない。
その時点で「戦う」選択肢しかないのかも(笑)
救いのない記事でごめんなさい。
でも個人的には結構批判もあるようだけど、はあちゅう氏並びに様々な方の「告発」は意義あるものだと思う。
なぜなら既存の社会になかった「SNS」という存在が生み出した影響力だから。
今までは被害者は隅で黙っているか、殺されるのを覚悟で裁判で戦うかみたいなことしかなかったのに、今はSNSという拡声器を通して発言ができる。
ネット上に公開される=一生消せない記録になるわけだから、ハイリスクではあるけどそれに見合うリターンも得られるはずだ。
なんでこんな記事を寝なきゃいけないのに真顔で書いているのかわからなくなってきたのでもう寝ます。
全国のハラスメントを受けている方たちが良い夢を見れますよう。おやすみ。ちんぽ。
失敗談>成功談
アメリカ就職に失敗したはなし - 怠惰を求めて勤勉に行き着く https://t.co/jdxeDY6pPp
— あんどう (@zero_1234567) 2017年12月18日
これ。とても面白かった。
いつの世も自慢話や成功談ばかり聞く羽目になるけど、失敗談こそ聞く価値があるよなと思う。
「こんな大成功しましたー!」っていう話以上に、「こんな大失敗しましたー」っていう方が実際は有益だったりする。
Ocean's 8
ぐああああああああああああああああああああああああああああオーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーシャンズ8!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
ポスターかっこよすぎワロタ
頼むから死んでくれ、おれがしぬまえに。
前作「オーシャンズ」シリーズの主演、ジョージ・クルーニー演じたダニー・オーシャンの妹が主人公となっている。
ちなみに演じているのはアカデミー賞常連サンドラ・ブロック様。
ほかにも「プラダを着た悪魔」「レ・ミゼラブル」のアン・ハサウェイとか、ケイト・ブランシェット、リアーナ、ダコタ・ファニング、「ハリーポッター」で知ってる人も多いのでは?ヘレナ・ボトム・カーターも出演。
紹介しきれないくらいの豪華っぷり。
頼むからやめてくれ。
そして頼むから日本も2018年の夏に同時公開してくれ頼む。