ANDO'S LABO

趣味を活字に起こす作業。https://twitter.com/zero_1234567 が著者です。

それをそれたらしめるのは、いつだって「終わり」の存在だという話。

俺たちが高校生だったころ、大学生だったころ、どこかのアルバイト店員であったころ、何かのスポーツ部員だったころ。

 

それらをそれたらしめていたのは、「終わり」の存在だと思う。

 

ゲームがゲームたらしめているのは、エンディングがあるから。

学生を学生たらしめているのは、卒業があるから。

 

いつだってどんなことにだって「終わり」は確かに存在していて、その終わりの存在が、だらしなく延々と続くその「状態」を確かな「完結したもの」に変える。

 

自分を自分たらしめるのは、自分の死があるから。

 

死を迎えて初めて100%、そこまではどこまで努力しても、逆にどこまで怠けても自分のストーリー進行度は100%未満。

自分、という存在は完結していない。

 

仕事を仕事たらしめるのは、その仕事にも終わりがあるから。

ゆえに、終わりの存在なきものは、存在しない。

 

永遠という言葉はあっても、実態として永遠が存在しないのと同じ。

 

ただ、学生までは終わりが「誰か」によって設定されているけど、それ以降、「終わり」は自分の手で設定しなければいけない。

 

自分の手で設定しなければ、新しいものは生み出せない。

それが仕事なのか、会社なのか、趣味なのか。

なんなのかはわからないが、自ら「デッドライン」を決めることでしか、なにかを生み出すことはできない。

 

と妄想にふける金曜日です。