それをそれたらしめるのは、いつだって「終わり」の存在だという話。
俺たちが高校生だったころ、大学生だったころ、どこかのアルバイト店員であったころ、何かのスポーツ部員だったころ。
それらをそれたらしめていたのは、「終わり」の存在だと思う。
ゲームがゲームたらしめているのは、エンディングがあるから。
学生を学生たらしめているのは、卒業があるから。
いつだってどんなことにだって「終わり」は確かに存在していて、その終わりの存在が、だらしなく延々と続くその「状態」を確かな「完結したもの」に変える。
自分を自分たらしめるのは、自分の死があるから。
死を迎えて初めて100%、そこまではどこまで努力しても、逆にどこまで怠けても自分のストーリー進行度は100%未満。
自分、という存在は完結していない。
仕事を仕事たらしめるのは、その仕事にも終わりがあるから。
ゆえに、終わりの存在なきものは、存在しない。
永遠という言葉はあっても、実態として永遠が存在しないのと同じ。
ただ、学生までは終わりが「誰か」によって設定されているけど、それ以降、「終わり」は自分の手で設定しなければいけない。
自分の手で設定しなければ、新しいものは生み出せない。
それが仕事なのか、会社なのか、趣味なのか。
なんなのかはわからないが、自ら「デッドライン」を決めることでしか、なにかを生み出すことはできない。
と妄想にふける金曜日です。
MISS NOTEを作った話
今日、良記事を発見した。
この記事、ツイートするのは本日2回目なのだが、すごく心に響いた。
— あんどう (@zero_1234567) 2018年2月23日
なにより重要なのは失敗。他人の成功談よりも、他人の失敗から学びなさいとのこと。
就活で30社落ちた中国のアリババ会長が、ダボス会議で語った意外な成功論 https://t.co/PJ6xHZ73wm @eimiyamamitsuさんから
早い話が「失敗から学びなさいよ」っていう記事なんだけど。
え、当たり前じゃね?っていうやつ出てきそうだけど、これが結構むずいのよ。
今はみーーんなSNS見てるから(見てない奴はそれはそれでお察し)、どうしても他人の成功談とか、他人のきらびやかな体験・生活みたいなのが目に入ってくるわけよ。
実際それがSNSでは有用なコンテンツになってるわけだし。インスタだってフェイスブックだってなんだってそう。
結局みんな、見たい・見たくない問わず、無意識に求めてるわけよ。
他人の生活を。もっといえば他人のきらびやかな生活を。無意識に。
だからどうしても意識してしまう。その結果、今の自分の環境と比較して、自身に足りないものを強く感じるようになるけれども、かといって、その不足したものを埋める見通しも立たない。
結果、焦燥感だけが背中から迫り、もどかしい時間を過ごすという。
俺は他人の生活を自分と比較してネガティブにならないほうだけど、こんな俺でも無意識には比較しているはず。
俺くらい無頓着であっけらかんとしてる天然男でも気にしてるんだから、そりゃ世間体の気になるシャイボーイや、周りからの評価がきになる女子なんかはもうぐっつぐつでしょう。
そんな「成功談」に支配される世の中を生きる人間として、この記事には非常に影響を受けた。
今まで影響を受けた人とか、本とか、映画とか、いろいろあるんだけど、それと並ぶくらいには影響を受けた気がする。
成功談に感化されて、何かアクションを起こす。それってもう根っからパリピやらアクティブやら意識高いキラッキラした人間にしかできないことなんだよね。
でも、失敗から学ぶことは、誰にでもできるし、どんなに消極的な奴にもできる。
どんなに怠惰に過ごしていたってどれだけ意識が低いやつだって、ミスはする。
それが仕事上のミスなのか、学校なのか勉強なのか部活なのかは知らん。
けど、ミスは必ずする。
そん時に、次ミスしないように、ってのを考えるだけで、人は成長できるんだよっていうことを分からせてくれた気がする。
そんなこんなで影響を受けた僕は、わかりやすすぎて自分でも笑うんだが、仕事上で「MISS NOTE」を作成した。
つくりは超簡単。
件数、日付、ミスの内容、ミスの原因、再発予防策、マニュアルに組み込んだか、をグラフにするだけ。
こんな感じ。
これに、「あーミスったなぁ」とか、他人のミスを見て「うわあれ俺だったら対応できねぇ」っていうときに、ちょこちょこ分析して入力すると。
個人的にキモなのは「マニュアル化したか」の部分。
ミスを反省して、次起さないようにするのはまぁわかるんだけど、組織に属している以上、「ミス予防に再現性を持たせなくてはならない」んだよね。
平たく言えば、何にも事情を知らない異動者が来ても、ド新人が来ても、そのマニュアルをみていれば俺が起こしたミスをおこさない、っていう状況を作らないといけない。
そのために一々マニュアル化していくっていう作業が凄い重要だと思った次第であります。
長年働いてる人からみたら、当たり前やんってことなのかもしれないが、俺にとってはだいぶ進歩のある気づきのある1日でした。
ゲームと金 を見て。eスポーツプロライセンス発行に思うこと。
今日こういう番組をやっていた。
見ていて面白かったんだけど、結局見てる人は「なんでプロのライセンスを与えるか否かをぽっと出のお前らに決めらんなきゃいけないんだ」ってことなんだと思う。(ちなみに僕は格闘ゲーム業界にどっぷりはまってるわけでもなんでもない、1ゲーマー)
いろいろこねくり回して説明してるけど、この一言に詰まってると思う。
以下は俺の感想を乱雑にまとめたもの。
金が動かなければ文化は継続できない
別にゲームに限ったことでもない。どんな文化も、それが継続して、歴史を築いていくためには、多かれ少なかれ「金が動く」ことが必要になってくると思う。
多くの人が参加していて、多くの人の中で盛り上がりをみせているコンテンツがあるけど、一切金は動きません。
そんな状況でそのムーブメントが何年も続くケースっていうのはまれだと思うんですよね。
宗教でもスポーツでもなんでもそうだけど、なにかしら「集金システム」があって、その集金されたお金が、良くも悪くもぐるぐるその文化の中で動いている。
そういう下地がないと文化として成り立つのは難しいんじゃないかなぁと思うわけです。
今まで「ゲーム」という文化における金の動きは、ユーザーとメーカーの間で発生していたと思う。
メーカーはゲームを作る。ユーザーはそれを買う。金がメーカーに行く。集まった金でメーカはー新しいゲームを作る。またユーザーは買う。
そういう流れで金が動いてたからこそ、僕を含むみんなでゲームという文化を今日の今日まで推し進めることができたんだと思う。
その中で、技術の発展ももちろんあるんだろうけど、ユーザーがゲームを「楽しみすぎた」結果、あたらしい「ユーザーでもメーカーでもないなにか」が生まれてきた。
オンライン対戦環境のあるゲームはもちろん競技性を帯びてくるし、オフラインでも今日議題にあがったドラクエ3のRTAみたいな、ユーザーが勝手にルールを設定してできた「競技」もできた。
それがどうやら「E-Sports」と呼ばれ始めたと。
個人的には、「E-Sports」はユーザーとメーカーの間にある概念だと思うんですよね。
そして、その新たに生まれ始めたEsportsという概念・組織が、ユーザー側に近いものなのか、メーカー側に近いものなのかっていうところに、今までゲームを愛していた人たちはセンシティブに気を揉んでいるのではないかと思います。
E-Sportsという言葉は、ブランディング戦略の一環だと思う
配信の中でハメコ氏が「E-Sportsという言葉を使う意味があるか?ゲームでいいじゃん」といっていて、確かになぁと思った。
個人的な結論としては、「ゲームとE-Sportsという言葉を使い分ける実質的な意味はないが、一般層の受け皿として、ブランディング戦略の一環として形式的に使い分ける意味はある」と思っている。
もともとゲームが好きな人間に、「昨日新しいゲームかったんだけどさぁ」といったとき、ゲーム好きな人間は何の違和感もなくその話に付き合える。
でも電車に揺られるブランド物をもった女性、頭の固い会社の重役、そういった「ゲームになじみがない人たち」に対してはどうか?
おそらく通用しないと思う。
「ゲーム?・・・はぁ・・・」となる。
別にゲームに対して、いやな印象をもっていなかったとしてもだ。
その時に、E-Sportsという言葉を使えば、仮にもスポーツって入ってるし、新しい感じがする。
昔からあるゲーム文化を言い換えただけなのに、さも新ムーブメントのような感じがする。
だからこそ、ゲームに馴染みのない層、もっといえば「今後E-Sportsが発展していくために遡及しなければならないターゲット層」のために作られた「造語」なのだと思う。
現にこのセクションの最初のハメコ氏の「ゲームでいいじゃん」という発言は、至極もっともなのだが、それをいってしまえば野球でもサッカーでも「ゲームでいいじゃん」となってしまう。
一般層の受け皿としての言葉なんだろうなぁと思った。
ただ協会の関係者の方の、説明力がやや不安だなぁと思った。
すれ違いはユーザー側の理屈か、メーカー側の理屈かが生み出す
中盤で、景品表示法に引っかからないためには、第三者からの資金提供か、選手個人の高パフォーマンスに対する報酬かのどちらかのやり方を取る必要があるという話が合った。
その際に、「ユーチューバーなどがゲーム大会に出て、演出をした際、別にプロライセンスを発行していなくても、労務報酬は受け取れる。同じ理論で、大会の参加者も、ライセンスがなくても報酬はもらえるのではないか」という質問があった。
それに対するメーカー側の答えとしては、「大会といっても千差万別、どういった趣旨のものかもわからないし人数の規模もわからない。例えば参加者10人の大会が開かれたとして、じゃあ10人全員と労務契約をしましょう、という行為はメーカー側として、会社としてリスクが大きい。コンプライアンスのクオリティを担保できない。であれば、どこからは労務契約を結んで報酬を出していい人なのか、というのをプロライセンスという形で線引きをした方がいいのでは」というものだった。
この回答は、ずっとあやふやな回答をつづけていた協会からの回答のなかで、初めてうなずけたような気がした。
やはり、ユーザーから見たらだれがどう見ても引っかかる。
「なんで勝手にプロとか決められなきゃいけないんだよ」
「プロ認定されなかったら不都合が生じるんじゃないの?」
みたいな。
とてもよくわかる。
ただ先ほど言った通り、おそらくE-Sportsは、ユーザーとメーカーの中間にあるはずだ。
そこに第三者以外のメーカーが当事者として潤沢な資金を投入するには、プロライセンスの発行という論理は必要なものだったのだろう。
法律を変えればいいという話もあるのかもしれないが、それは時間的なコストもかかるだろうし、このE-Sportsの流れに乗ったまま、規模を拡大するためには必要な制度だったのかもしれないと思った。
いってしまえば「報酬をあげていいかどうかライセンス」だ。
いったんこの辺で。あとから追加あるかもしれませんが、駄文見ていただいた方ありがたや~
【疑問】2018/2/13
1.官報って何?
政府が、一般国民に知らせる事項を編集して、毎日刊行する国家の公告文書
ちなみにこの官報、30日前までのものであればいつでも閲覧できます。
もっというと、それ以上前のものであっても、有料会員になれば見れちゃいます。その他にも、キーワード検索もできるようになるみたい。
今どきキーワード検索が有料会員限定の機能ってどうなのよ?って思うけど。(わざわざ官報の中身も画像に落とし込んでからPDF化してるから、Ctrl+fで検索できないようになってる。)
まぁ、Evernoteに取り込めば検索できんだけどね。
法律の開始とか、企業の決算とか、どこそこの会社がつぶれたので、債権を持ってる方は申し出てくださいみたいなことが載ってます。
結構面白いっすね。
それに目次欄だけ見ても、社会的な知識が付くのがいいところ。
2.企業の決算ってどうやって情報を集めればいいの?
これは「官報ってなに?」→「官報って決算が載ってるんだ!」→「でも官報に偶然載ってる決算しか見れないね!」ってところから疑問にわきました。
結論としては「Twitterを活用する」ですかね。もっと直接的には「決算に詳しい人のTwitterをフォローする」とかでしょうか。
見た感じ、
がよさそうですね。
これ毎日見てるだけで、ずいぶんと成長しそうだなぁ~。
3.SPEEDA事業ってなに?
→株式会社ユーザベースのサービスの一つ。M&A情報や株価、市場調査などが行えるプラットフォーム。日本の時価総額トップ100社中4割が導入ということらしい。
詳しくはこちら
たとえば誰かが自殺して。
それが凄く近しい人だったとして。
「彼の気持ちを考えると・・・」なんて言える?
俺には言えない。
おそらく葬儀場にはたくさんの人が辛気臭そうな顔して泣くんだろうけど、誰一人として自殺した人の気持ちなんてわからないだろうね。
わからないから死んだんだよ。
わかってもらえなかったから死んだんだよ。
生きてればいろんないいことだってあると思う。
でもそれを補って余りあるくらいの絶望から逃れたいがために死んだんだよね。
「一人で分かってもらえないなんて言われても、いってくれなきゃわからないよ」なーんていうやつがいそうだけど。
そうだとしても、理由が何であれ、「わかってもらえなかった」から、死んだんだよ。
認められなかったから、孤独だったから。
みんな勝手にいろんな気持ちを抱えて、みんな勝手な行動をとるんだよね。
「金を落とす人がより有利なシステム」←わかる 「金を落とさない奴はファンじゃない」←わからない
結論から言うと、個人的な感想は「くそどうでもいい」です。
ただ、その「くそどうでもいい」を少し掘り下げてみたい。
何の話かというと、
岡崎体育氏:
いわゆるファンクラブを開設→ただファンに区分を設けていて、より多くお金を落としてくれた人にはそれだけ見返りあるよ的なシステム→一部「ファンを選別するな!」と批判→岡崎体育氏、批判に応酬→ブログで冷静に事の流れをまとめた。
🌟岡崎体育、新しいこと始めます🌟
— 岡崎体育マネージャー松下 (@mansatti) 2018年2月2日
岡崎体育×bitfan 始動! https://t.co/pxq6wmwASa
自分で働いたお金を使って俺を応援してくれてる人に何かお返しができたらいいなと思って始めたシステムという事だけです。
— 岡崎体育 (@okazaki_taiiku) 2018年2月2日
ただそれだけのこと。
これ以上はもう何も言いません。
思っていることをブログに書きました。ぜひ読んで下さい。
— 岡崎体育 (@okazaki_taiiku) 2018年2月3日
ファンクラブの存在意義について - 岡崎体育ブログhttps://t.co/g4DKwwbH9l
近日中に東京へ出向いて、もう一度ファンクラブの内容を見直します。何か良い改善策があるかもしれない。
— 岡崎体育 (@okazaki_taiiku) 2018年2月5日
誰かを幸せにしていたつもりが、他の誰かを不幸せにしていることに僕は気づけなかった。
ファンクラブに入ってくれてるみんな。
少し時間をください。
迷惑かけて不安にさせて本当にごめんよ。
はあちゅう氏:
上記の岡崎体育氏の騒動を受け「金を落とさない人はファンじゃない」とツイート→炎上(という名の思ったことを発言せずにいられないはあちゅう氏と熱烈なアンチの恒例のリプのやりとり)
私はお金を使ってくれない人はファンとは呼ばないと思う。クリエイターが活動を続けるためにはお金が絶対に必要なので、お金を使って才能を伸ばすことに貢献してくれる人がファンだと思う。本を「くれるなら読みます!」イベントを「タダなら行きます!」とか言われるの腹立つ。それはファンじゃない。
— はあちゅう (@ha_chu) 2018年2月4日
といった感じだ。
両氏がいってることはわかる。なんだってこういうシステムで、というか、こういう「利益をもたらしてくれる人が得をするシステム」じゃないとビジネスの規模も大きくならないよね。
株だってなんだってそうだし。
いってることはとても分かるんだけど、言わなくていいことをいってるよなぁとも思う。
例えば「利益を還元してくれる人がいるから成り立っている」関係なんてビジネスでなくとも腐るほどあると思う。
ただその「線引きを自分の言葉で明確にすること」でどれだけ損するか。どれだけファンが離れるか。
自分のことをいいなぁって思ってるくれてる人に「お前は何にも俺に利益をもたらしてない。お前は恋人でもセフレでもない。利益を還元しないのに無責任に好意を持つのは腹立つ。」とかいいますか?
俺は言いません。別にいう必要ないでしょ。
セフレだってセックスさせてくれるから、ほかの女友達より優しく接するし、なんならなんか買ってやったり飯おごってやったりするわけでしょ。
恋人なんて飯作ってくれたり、愛情や安心を与えてくれたり、おまけに身の回りのことやセックスもさせてくれるから、「セフレと比べてより優遇する」わけでしょ。
そりゃ「利益をもたらしてくれる人を優遇する」のは当たり前。自分のファン(またはフォロワー)に段階があるのは当たり前。
でもそれがイコール「利益をもたらさない人に対して”あなたたちはファンでもなんでもない”という」に繋がるのは少しやばいと思う。
別に一人の人間として匿名ツイートするくらいならいいかもしれないけど、人気商売の業界でビジネスやってるクリエイターが、そういう潜在的なファン層をむやみに切り捨てる行為を見ると、「本当にこの人ビジネスが得意なの?」と素直に思いますね。
土曜のスーパーは戦場。
おや、今日は午前に肉でも買って料理でもしちゃおうかねぇ。
なんて思いで向かった土曜の午前のスーパー。
これがまぁ野戦病院だった。
高齢者はすれ違いざまに肩をぶつけ舌打ち、子連れの女は自分の子供を放置し金切り声をあげ、特別価格の豚やら魚やらを掴み取る。
あぁ、ここは地獄なんだなと。
俺がコンビニやらAmazonで一人の世界に閉じこもってる間に、世界はこんなに荒れ狂ってしまったのかと。間違いだった。俺も社会の一部になろう、皆が集う場所に参加しようなどと思ったことは。
私は普通の人のふりをしたかったのだ。
朝午前に早く起き、文句を言いつつ家族を起こし、午前のニュースが始まるやいなや、家族の昼食を買いにスーパーへ行く人のふりをしたかった。もう一度いう、間違いだったのだ。
それでもなんとか豚の生姜焼きを作ろうと、豚と玉ねぎと生姜を手に入れた。
しかし本当の地獄はここから始まる。
レジだ。普段なりを潜める女子供がここぞとばかりに欲望を表す。
だらしのない体の豚女がインスタを開いて列は詰めないわ子供は買うはずのない商品のチョコを掴み走り回るわ。
子供が俺にぶつかるも、その子の親はこちらを怪訝な顔でチラ見し、無視。
あぁ、荒野。そこに怒りの感情を持つことさえも面倒だった。
長い長い列を待つ時間、無駄にはしまいと電子書籍を開き、それでもインスタBBAと同じ穴の狢にはなるかとこまめに列の状況を確認し、詰める。
時間を無駄にしたくない、ただ自己中にはなりたくないと言う葛藤の中、私はレジを切り抜け、無愛想なレジのBBAに請求された金額と感謝の意を伝え、足早にスーパーを去った。
小走りだったかもしれない。いや、走っていたのだろう。
スーパーを出て、足を止めて後ろを振り返る。
中に入れば、安さと手軽さに支配されたゾンビが彷徨う鬱屈とした空間だが、外から見たスーパーはいやに安心と温かさを感じさせた。
ここは俺の居場所ではない、と二度と振り返ることなく私は帰り道Amazonパントリーで本当に買いたかった食品をカートにいれ1click購入をしたのだった。