人生の価値は、自分の中にしかない。
人生の価値は、自分自身が心から解きたい・解くべき価値があると思う問題を解くために闘うことにある。
人生には本当は神から与えられた意味があるのかもしれない。
が、そんなことは究極的にはわからないし、今のところは勝手に産まされて勝手に死ぬだけだ。
幸か不幸か、その与えられた人生の時間は、どんな生き方をしたって本来は原則、自由のはずだ。
ただ、無制限にそれらの自由を許してしまえばいいわけではない。
「誰かを殺す自由」と「誰かから殺されない自由」がぶつかるように、いくつかの自由が衝突し、矛盾をはらむことも起こるだろう。
そういった問題を解決するには、矛盾を含む部分については憲法や法律などのルールで、法律制定者または法律執行者への信用を担保に、一部、自由を制限しなければならない。
そうやって人間は自分の、みんなの自由を守るために、よりよく生きるために、目の前の問題を解決してきた。
生きるために、食べ物を食べなくてはいけないから、他人やほかの動物を殺して食べた。
毎日、狩りをして殺しをするのは危険を伴うから、保存や貯蓄ができる食物も生産するようになった。
自分以外の人間が安定して暮らせるように、保存や貯蓄ができる資源を確保・拡大するために殺し合った。
殺し合いは不毛で、目先のメリットを見逃してでも協調したほうがより全体の利益になるから、部族間での戦いを可能な限り回避し、より大きな単位、組織で協力をするようになった。
部族や組織が大きくなるにつれ、個人の生存能力差がでてきて、部族や組織間の調和を保てないから、生存資源の分配などを、中央の管理者が行うようになった。
組織の拡大に伴い、個人間の物理的な距離が開くにつれ、移動や資源の運搬が難しくなり、より低資源で効率的に移動ができるような技術が、価値の基準の統一や価値の保存が可能なように通貨などが開発された。
通貨などの価値の概念に、需要や供給などの大衆心理や、先物や利子などの時間軸的な概念を絡め、通貨の概念や技術をより発展させた。
繰り返しになるが、人間はいつでも、自由に、よりよく生きるために、目の前の問題をクリアしてきた。
今なお、時代の最先端を走る自分たちの目の前にも問題は存在する。
もちろんその問題を解く「価値」はその問題ごとに違うと思う。
社会や時代のニーズに沿った、解く価値の高い問題を解ける人は、それだけの価値を付与されるだろう。
逆に、社会や時代のニーズに沿わない、誰でも解けるような問題を解き続けてる人はそれ相応の価値しか付与されないかもしれない。
しかし個人的には、ベクトルは度外視して、それぞれがそれぞれのベクトルで、目の前の問題をひたむきにクリアしていけばいいと思う。
自分が解きたい!と思った問題が、社会や時代のニーズに沿った、解く価値の高い問題であるかどうかは関係ない。
もちろん、それが一致していれば、幸運としかいいようがないが、本来であれば、
自分が、心から解く価値があると思う問題を解くべきだと思う。
問題をクリアするために他人と協力したり、向き合う問題は違えど問題をクリアする過程の感情を共有したり、互いの価値観を刺激し合えばいい。
完璧な理想の世界を作るには人生は短すぎるが、不条理な現実を諦めてうつむいて生きるには人生は長すぎる。
人生が短すぎるのが問題なら、寿命を延ばす問題をクリアすればいいし、次世代の子供を作ればいい。
人生が長すぎるのなら、尊厳をもった死をみんなが自由な意思で選べるような制度を作るために問題をクリアしなければいけないだろう。
自分が「解きたい!」と思う問題は、自分の心の中にしかないのだ。
究極、自分にしか見つけられない。
その問題を見つけるには、自分の好奇心に従って、失敗しても何とか立ち上がれる範囲でリスクを管理し冒険する。そして、いろんなものに見聞きし触れあうしかない。
それぞれが、それぞれの解くべき価値のある問題を見つけ、その問題を解こうとひたむきに努力し、自由に生きるために闘い、その過程をシェアする。
そこに人生の価値があるのではないかと思う。