ANDOのブログ

気づきとか違和感についての独り言

形式知と経験知

こんばんは。

 

前から思ってはいたんだけど、勉強や読書で得た、経験したことのない形式的な知識(以下、「形式知」)より、実際に経験して痛い目見たり美味しい思いして得た血の通った知識(以下、「経験知」)の方がずっと有用だと思ってんだよね。

 

で、ずっと、「形式知なんてくそだ!」とも思ってたんだけど、それもちがうなってなったんで、備忘録代わりにメモ。

 

っていうのも、形式的な知識がある方が、血の通った経験知になりやすいんだよね。バカも天才もみな等しく24時間生きてるわけで、みな濃淡はあれど何かしら経験してる。

なのに一方はそんなに学びがなくて、一方は学びが多い毎日を過ごしてると。その差はなに?って言ったときに、多分形式的な知識の差だと思うんだよね。

 

例えば、有名なゲシュタルト崩壊ってあるけど、「ゲシュタルト崩壊」っていう言葉を知らないと、「あれ?〇〇っていう漢字ってこんなんだったっけ?ん?なんだこれ?」とかいって一日が終わるんですよ。

んでそいつは何事もなくくそしてシコって寝るわけで。でも、形式的な「ゲシュタルト崩壊とは、知覚における~」みたいな知識があれば、最初はその意味がわからんくても、「あれ?〇って漢字こんなんだっけ?ん?あれ、これがゲシュタルト崩壊か!」ってなるんすよね。

 

だから、形式知が多けりゃ多いほど、日頃右から左へ流しがちな経験が経験知に昇華する確率が上がるわけで、形式知もないがしろにはできねーな、って思いました。

勉強も読書もある程度必要で、んで願わくばそれらを実生活で実験してみたり、実験したりするほど好奇心旺盛じゃなくても、なにかそれっぽい経験をしたときに、「あれ?これこの前のアレじゃね?」って、自身の経験を省みたり、言語化したりする機会を設けることで、人ってのは成長速度が上がるんじゃないか、そう思ったんですよ。

 

あとは、今思いついたけど、人の話をよく聞くってのも重要そうだな。

「いや俺はさ~」っていう一見くそつまらない身の丈話かよ、って思うような同僚とか上司の話でも、そこからそいつなりの経験知を見出して、そいつの経験知を自分の形式知にして、

んで自分の形式知を自分の経験知にかえるきっかけにすりゃぁ、だいぶ無駄な職場の人間との会話もいくらか生産的になるんじゃねーか、そう思いました。

 

おわり