ANDOのブログ

気づきとか違和感についての独り言

お題「チームワークを語れ!」

お題「チームワークを語れ!」があったんで、いい機会だなってことで書きます。

 

ありきたりではあるけど1個目は、「みんなリーダー視点持てよ」って思うんよね。「みんなリーダー視点なんか持ったら主張し合って収集つかねーじゃん」って思うかもしれんけど、ふつーに一人しかリーダー視点持ってない集団の方がよっぽどやばいでしょっていう話で。

 

飲み会で考えてほしいんだけど、みんな幹事経験者の飲み会の方が、幹事経験者一人の飲み会より絶対うまくいかない?集合のタイミングから決済方法、二次会があるのならその二次会への繋ぎ方とか、絶対一人があたふた考えるより、みんなが経験から察し合って助け合った方がうまくいくから。

 

だからいいフォロワーってのはリーダーシップをもったやつのことをいうとおもうんよね。自分がリーダーじゃなくてフォロワーだったとしても自分がリーダーだったら?っていう視点を忘れずに、リーダー視点で考えたときにいまリーダーはこんなことに困ってるんじゃないか?とかそういう視点に気づくし、そしたらその問題を事前に解決してリーダーからのヘルプに備えることができるし。

 

あとリーダーシップを、「主張が激しい」みたいにとらえてる人がいて違うんじゃねーかと思うんだけど、実際ほんとのリーダーシップを持ってたら、決定権限がある人の意見に従うと思うんだよね。さっきの飲み会の例でも、それぞれが「いやこうしたほうがええんちゃうん?」ってのを生産的かつマイルドな意見で提案はするんだけど、その飲み会の幹事が「ん~でも〇〇案にしよう!」っていったときに、「おっけ!お前が言うんならそうしよう!」ってなるのが真のリーダーシップだと思うんよ。互いの知識や経験をもとに生産的にばっちばちに意見や議論は交わすけど、いざ決定権限を持つ人が何かの判断をしたら、四の五の言わずにそれに従う。そういう意識を持ってる人たちの集団こそが一番強いんだと信じてます。

 

あともう一個は、「モチベーション」ね。

変な話、技術面とか知識面でリーダー含めメンバーも未熟でもいいわけよ。でも、その経験の中から「学ぼう」とか「吸収しよう」みたいな前向きな(=生産的な)姿勢を持った人たちの集まりだったら、決してモチベーションが落ちないと思う。

仕事なんて結局最後は人対人だし、モチベが落ちずに熱量が高い状態でなんとかガンガン問題を解決してれば大抵のことは、誰かからの理解が得られた利、得られなくて失敗扱いされても絶対次に繋がるし。まぁ一定のルールでずっとその状態を保持したい、っていうんならモチベじゃなくて統治を優先したほうがいいかもしれんが、組織の形が多少変化しても構わないってんならモチベ維持を優先させて、みんなのそれぞれの熱量の高さに任せた方がいいと思うんだよね。

 

でっていう。

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結果よりそこまでの道のりを重視した方が幸せじゃないすか?

思いつきをパパッと。

 

まぁ、結論から言うと、自分のベストいけたか?ってくらい頑張ってギリギリ手の届く環境にいることが、その当人にとってはいいことなんじゃないかって思うんすよ。

 

だってさ、100mを10秒で走るとかさ、センター試験満点とか無理だもん。無理じゃんそんなもん。

そういう誰にでもわかる客観的な評価で人を評価することは正しいと思うし、何の異論もない。

 

けど、一個人としてはそこにとらわれちゃダメだなって思う。

 

話戻すけど、自分がめちゃ頑張って届くギリギリの環境って、自分と同じくらいの能力か、それよりちょっと高い能力の人が集まると思うんだよね。

自分の本来のポテンシャルが100でさ、必死に努力してひっかかった110の環境があるとするじゃん。

同じく自分と同じ能力100の人が頑張って、同じ環境に入ってくるだろうし、もしくは自分よりちょっと上の能力の人がまぁ色々あって、その環境に入ってくるわけよ。

 

だから話す内容も全部刺激的だと思うんよね。

あーそんな視点あんのかー、みたいな。

 

これがさ、すげー下の環境にサボって入ったところでつまんねーもん絶対。

逆も同じで、すげー上の環境にまぐれとかコネとか不正とかで入ってもつまんねーよ。

 

だから、自分の能力が高いとか低いとか関係ないんよ。

自分なりに興味関心があるところに対して、自分なりに考えて、自分なりに精一杯頑張って、その結果受け入れてくれる、拾ってくれる環境が一番自分に合ってる。

 

そう思いました。

 

 

「自分に厳しく、人には優しく」っていう言葉の意味が分かってきた。

知ってはいたようなことわざとか格言について、身に染みてその意味を理解する、みたいなことあるじゃん?昔のやつまじすげーな、みたいなやつ。

あれに遭遇したので筆を執りました。

 

「自分に厳しく、人には優しく」っていう言葉あるじゃん。

まぁぶっちゃけ「人に優しくしろ!」って説教こいてる時点で、発言した奴も人にやさしくないと思うんだけど(お前のことをおもって説教してるからこれも優しさなんだ!とか説教されそう)。

 

んで、これさ、要は「自分のことならなんとかできるけど、他人とかどうしようもないからそいつのモチベだけあげとこうぜ」って意味だよねぜったい。

自分だったらさ、痩せるとか筋トレするとか腹筋するとかなんとかできるけど、周りの人とかもうどうにもできんしな。

 

んでさ、他人に対してはさ、最終的には的確なアドバイスをするよりモチベ上げてあげる方がいい気がするんだよな。別に理由はねーけど。

「女の子が男子に相談するとき、正論を聞きたいんじゃない!共感してほしいの!」

っていうマンカス理論あるじゃん?

あれ。もう女とか男とか関係ないよね。オカマでも犬でもサイコパスじじい相手でもモチベだけあげさせときゃいいんだと思う。

その方が絶対うまくいく。

 

んで、自分自身に対して、的確なアドバイスをして、それを実行して、合理的な行動をとってれば、周りはいずれ気づくから。

「あ、あの人の言動いいな、合理的なだな。しかもいつもモチベあげてくれてるしいい人だから尊敬しちゃうな。真似しちゃお。」ってなるから。

 

自分が「コントロールしてやろう」なんていうのは、機械と自分自身に対してだけやね。

下手すりゃ、機械はまだしも自分に対しても、モチベあげた方がいいかもしれんレベルだわ。

 

ま、そんな感じ

新年が好きだ。~年末にポエムを書く~

年末が、新年が好きだ。
 
自分の至らなさを許すチャンスをくれる。
 
身の丈に合わない野望を抱くチャンスをくれる。
 
外の冷たい空気に触れると、思い出の街を思い出す。自分がした良くないことも、他人にされた良くないことも、なんだかいい思い出になって、許せる。
 
変わらない過去を忘れたくないという切ない気持ちと、また新しいことを始めてみようという目の前が開ける気持ちをくれる。
 
あの日、あの時、好きになった子、付き合った子、愛のあるセックスをした子、セックスだけした子、一緒に部活してた友達、遊んだ友達、語り合った友達、喧嘩した奴、仲が悪かった奴、嫌いな奴、死んだ犬、一瞬知り合った人。
あの人たちは、今何をしてるんだろうかと思い返す。
みんな幸せになってるんだろうな、と思えるほどきれいな心はなくしてしまったけど、それでもみんなが、それぞれの成功と失敗を自身で受け入れていますようにと願わざるを得ない。
 
他人の幸せを押しのけてまで、自分が幸せになりたいとは思わない。
 
けれど、自分の価値観を大切にする人生を送りたいとは思う。
 
他人にいわれたことじゃなくて、自分の頭で考えて、生きたい。
 
そしてその結果、起きたすべてのことを、受け入れる人生でありたい。
 
人生とは結局、「挑戦と受容」だと思う。
 
色んな事やモノに挑戦して、いいことも悪いことも、いろんな考えや文化や人を、すべてを受け入れられたら、なんて素敵な人生なんだと思う。
 
来年もまた、「成長できたのかよ俺…何やってんだ…」と悔やむことになるかもしれないのだけど、それもまたいいと思う大晦日になった。

世を支配する「机上の正論」

 

身の丈に合った、努力や生活をしていかないと、ダメだよねっていう話。

 

ゲームとかでもさ、技を覚えてても、HP・MPが足らなかったら使えないじゃん?

FF9でも、ダガーは召喚魔法を最初っから覚えてるんだけど、MPが足らなくて全然使えないんだよね。

 

それと同じで、理論上の計算の結果、逆算とかで出した計画を、実際の生活に当てはめるのはなかなか難しい。

例えば、10日で問題集100pやろうってなった時に、100pを10日間で割ればいいから、一日10pやればいいわけじゃない?

でも、それを実際100人の受験生がチャレンジした時に、何人出来るかってなったら半分…いやもっと20人くらいだと思うんだよね。

 

しかも最近はそれに拍車をかけて、自己啓発本とか、「正論」に支配されてる節があって。

確かに正論って正しくて。

読めば「そうだよな」ってなるんだよ。でもそれって結局は他人の成功体験とか成功哲学だから、自分に当てはまるとは限らないんだよね。

もちろん他人の具体的な成功哲学を抽象化して、それを自分のケースに再具体化していくってしていけばいいんだろうけど、それでも結局はさっき言った「机上の逆算計画」と同じだと思うなぁ。

 

俺は、「机上の空論」と「正論」とを合わせて「机上の正論」っていってるんだけど、

SNSという(基本的には)テキストのみのツールを通じて、机上の正論に世の中が支配されてるような風潮を感じるから余計に気を付けないといけないなって思う。

 

やっぱ自分には自分のHP・MPの上限値ってあるし。

その上限値を超えて頑張ろうって、努力とか行動とかアクションを起こそうとすると、反動で気が病んじゃうんだよね。鬱になっちゃうような気もする。

 

身の丈に合った、スタミナの範囲で頑張っていかないとなって。

自分自身の体質とか特性って、あると思うから、なるべくそれを早く把握して、その範囲内でやっていかないと壊れちゃう。

もちろん、ここぞっていうときに一気にやる集中力も大事だと思うし、何より一回くらいは自分の上限値を超えてやってみて壊れてみないと自分の限界ってわからない。

 

でもそれを日常的に毎日、求められちゃうと、人っておかしくなるから。目的を見失うから。

なにより継続を前提にした努力をできないってプロとしても正しくないと思う。

 

一夜漬けとか短期間での追い込みって限界があるから、継続して長い目で勝ち続けるためには、身の丈に合った努力を継続してやっていく必要があるな~って思ったので備忘録として書き綴っておきます。

配点5点の激むず問題より、配点50点の簡単な問題。

www.nikkei.com

 

郵政を民営化したことで、サービスが向上すると思ったのに、土曜の配達がなくなるなんてかえってサービスの利便性が低下してるじゃないか!本末転倒じゃん!

 

っていう意見があるんだけど、俺は違うと思うね。

 

ココでの意見の食い違いはサービスの定義づけの部分。

 

今やほとんどのコミュニケーションがメールやチャットで行われていて、今どき手紙なんて使うか?

公的文書の通達等を除けば、もはや高齢者専用のコミュニケーションツールとなってるわけでしょ。

 

そのうえで、土曜の配達まで必要かといわれればそうじゃないと思う。

 

もはや郵便局なんていうのは、お年寄りをケアする施設、に変化しているわけで、人手不足の中、全国規模で週末まで配達することが「提供すべきサービス」とは思えない。

 

民営化したからこそ、全体のニーズを見極めて、そのニーズに見合うコストを投じて、必要十分なサービスを提供すべきでしょ。

 

一部の人が困るんだから、全体のニーズを無視してでもそのサービスを従来通り維持すべき!なんていう発想こそ行政的。

 

働き方改革が叫ばれてる中で、人手不足の業界が供給するサービスを見極めることは、真に求められてるサービスを今一度改めて考えるいい機会になる。

 

第一いつも思うんだけど、日本人の生産性が低いってのは、日本人の能力が低いからじゃないと思うんだよね。

 

だって実際職場に行けば、テキパキ動くし、しっかりまじめに最後まで仕事やる人が多いじゃん。もちろん糞みたいなやつもいる。

 

じゃあ何が悪いかって、「価値を生まない仕事をやってる」んでしょ。

日本人は真面目(実際には海外ではたらいことないからこの前提も謎だけど)だから、上司から言われたことはしっかりやるよ?

けどその指示の内容が金にならない、投じたコストと比べたときに組織として十分な価値を生まないんでしょ。だから生産性が低い。

 

外国の人が不真面目でテキパキ仕事をやらないなんて思わないけど、たとえそうだとしても、彼らは態度は不真面目かもしれないけど、顧客が求めるニーズにクリティカルに仕事を、省エネでうまくやってるんでしょ。

 

確かに与えられたタスクをいかに効率的に処理するかも大切だよ。

でもその前に「そもそもこの問題をこの局面で解く価値があるのか?」ってところから考えなきゃいけないんじゃないの?

 

自分の組織(または自分)の提供する価値の源泉は何なのか。

その価値を最大化してサービスを提供するためにはどんな作業が必要なのか。

 

そういう目線が必要なわけだと思うけどな。

 

試験受けたとしてもさ、配点5点の激むず問題を必死で解くより、配点50点の簡単な問題を解くでしょ?

確かに与えられた問題を「早く正確に」解くスキルも大事よ。

 

でもそもそもどっから解いたら楽かな、っていう視点の方が大事だと思う。

人生の価値は、自分の中にしかない。

人生の価値は、自分自身が心から解きたい・解くべき価値があると思う問題を解くために闘うことにある。

人生には本当は神から与えられた意味があるのかもしれない。

が、そんなことは究極的にはわからないし、今のところは勝手に産まされて勝手に死ぬだけだ。


幸か不幸か、その与えられた人生の時間は、どんな生き方をしたって本来は原則、自由のはずだ。



ただ、無制限にそれらの自由を許してしまえばいいわけではない。

「誰かを殺す自由」と「誰かから殺されない自由」がぶつかるように、いくつかの自由が衝突し、矛盾をはらむことも起こるだろう。

そういった問題を解決するには、矛盾を含む部分については憲法や法律などのルールで、法律制定者または法律執行者への信用を担保に、一部、自由を制限しなければならない。



そうやって人間は自分の、みんなの自由を守るために、よりよく生きるために、目の前の問題を解決してきた。



生きるために、食べ物を食べなくてはいけないから、他人やほかの動物を殺して食べた。



毎日、狩りをして殺しをするのは危険を伴うから、保存や貯蓄ができる食物も生産するようになった。



自分以外の人間が安定して暮らせるように、保存や貯蓄ができる資源を確保・拡大するために殺し合った。



殺し合いは不毛で、目先のメリットを見逃してでも協調したほうがより全体の利益になるから、部族間での戦いを可能な限り回避し、より大きな単位、組織で協力をするようになった。



部族や組織が大きくなるにつれ、個人の生存能力差がでてきて、部族や組織間の調和を保てないから、生存資源の分配などを、中央の管理者が行うようになった。



組織の拡大に伴い、個人間の物理的な距離が開くにつれ、移動や資源の運搬が難しくなり、より低資源で効率的に移動ができるような技術が、価値の基準の統一や価値の保存が可能なように通貨などが開発された。



通貨などの価値の概念に、需要や供給などの大衆心理や、先物や利子などの時間軸的な概念を絡め、通貨の概念や技術をより発展させた。



繰り返しになるが、人間はいつでも、自由に、よりよく生きるために、目の前の問題をクリアしてきた。



今なお、時代の最先端を走る自分たちの目の前にも問題は存在する。

もちろんその問題を解く「価値」はその問題ごとに違うと思う。

社会や時代のニーズに沿った、解く価値の高い問題を解ける人は、それだけの価値を付与されるだろう。

逆に、社会や時代のニーズに沿わない、誰でも解けるような問題を解き続けてる人はそれ相応の価値しか付与されないかもしれない。



しかし個人的には、ベクトルは度外視して、それぞれがそれぞれのベクトルで、目の前の問題をひたむきにクリアしていけばいいと思う。



自分が解きたい!と思った問題が、社会や時代のニーズに沿った、解く価値の高い問題であるかどうかは関係ない。

もちろん、それが一致していれば、幸運としかいいようがないが、本来であれば、

自分が、心から解く価値があると思う問題を解くべきだと思う。





問題をクリアするために他人と協力したり、向き合う問題は違えど問題をクリアする過程の感情を共有したり、互いの価値観を刺激し合えばいい。



完璧な理想の世界を作るには人生は短すぎるが、不条理な現実を諦めてうつむいて生きるには人生は長すぎる。



人生が短すぎるのが問題なら、寿命を延ばす問題をクリアすればいいし、次世代の子供を作ればいい。

人生が長すぎるのなら、尊厳をもった死をみんなが自由な意思で選べるような制度を作るために問題をクリアしなければいけないだろう。



自分が「解きたい!」と思う問題は、自分の心の中にしかないのだ。

究極、自分にしか見つけられない。



その問題を見つけるには、自分の好奇心に従って、失敗しても何とか立ち上がれる範囲でリスクを管理し冒険する。そして、いろんなものに見聞きし触れあうしかない。



それぞれが、それぞれの解くべき価値のある問題を見つけ、その問題を解こうとひたむきに努力し、自由に生きるために闘い、その過程をシェアする。



そこに人生の価値があるのではないかと思う。