Wikipedia巡り #3 LINE (スキマスイッチの曲)
ワロタ。
LINE
- テレビ東京系アニメ『NARUTO -ナルト- 疾風伝』オープニングテーマ
- タイトルの「LINE」は歌詞の中に出てくる自転車の轍のことを表している。
へぇ~~。
- 期間生産限定盤は『NARUTO -ナルト-』描き下ろし紙ジャケット仕様。
これらしい(笑)
一個前のシングルの星のうつわなつかしいなぁ~
どうにもナルトの映画のテーマソングだったみたい。
星のうつわ
- 全国東宝系映画『THE LAST -NARUTO THE MOVIE-』主題歌[1]
- MVは、リアルタイムに3DのCGを作成していくという最新技術を利用して撮影された。
Wikipedia巡り #2 ユガ
2発目からスゲーの引いちまった。
なんでも時代の名前なんだとか。春夏秋冬みたいに、ぐるぐる時代が巡っていくらしい。
それぞれの期間においては、法や徳、知恵、知識、知力、寿命、感情や肉体の強さが徐々に低下していく。
- サティヤ・ユガ - 徳が支配する時代であり、人間の平均身長は21キュービット、平均寿命は400年になる。
- トレーター・ユガ - 徳が4分の3、罪が4分の1を占める。人間の平均身長は14キュービット、平均寿命は300年になる。
- ドヴァーパラ・ユガ - 徳が2分の1、罪が2分の1を占める。人間の平均身長は7キュービット、平均寿命は200年になる。
- カリ・ユガ - 徳が4分の1、罪が4分の3を占める。人間の平均身長は3.5キュービット、平均寿命は100年になる。
だとか。
つまり、春が一番徳に満ちていて、冬に向かってどんどん罪な時代になっていくみたい。
#本を書く 2.自助の精神を。
「天は自ら助くる者を助く」
他人に頼らず、自立して努力する者には天の助けがあるよ、という意味だ。
他人に期待しない。自分もその気持ちを強く持っているが、これは決して他人を見下しているとか、自分の力を過信しているというわけじゃない。
自分ができることに身体的・精神的なエネルギーを投資することが一番生産性が高いのだ。
「自分のコントロールできる部分に集中すべき。」
「You should focus on what you can control.」
自分と未来は変えられるが、他人と過去は変えられない。確かに他人や過去が自分の期待通りに、変化してくれればそれほどうれしいものはないが、過去は確実に変えられないし、他人に関しても、他人が自分の期待通り動いてくれる保証はない。
それに「期待」なんていうのは大抵の場合、抽象的なもので、大抵は「期待」に見合う具体的な変化は起こらない。
つまり、自分がコントロール可能なことに、時間と金を使うのが一番リスクが少ないのだ。
他人に仕事やお願いをしてもいい。ただ、それを他人がやってくれないケースのことも考えて動くことがリスクヘッジになる。
仕事において、「〇〇さんにやってってお願いしたのにやってくれなかったから、計画通りいきませんでした。」
プライベートにおいて、「〇〇さんがこの道に進んだ方がいいっていうから進んだのに、うまくいきませんでした!どうしてくれるんですか!」
前者においては、顧客は「知らんがな」だし、後者においては「ほんとごめん!でもどうにもできん!」となる。
自分の選択や行動の責任は、自分の責任で負うしかないのだ。
そういう厳しい現実があることを前提にすれば、いい意味で「他人に期待しない」という精神は必ず必要になる。
もちろん優秀な仲間や、自分のことを想ってくれる仲間であれば、自分の望む通りの変化を起こしてくれるかもしれないが「やってくれたらラッキー」程度の気持ちをもって、行動するのが望ましい。
自分を助けてくれるのは、本当の意味では自分しかいない。
他人に助けてもらうこともあるだろうが、それはあくまでその局面における限定的な助けで合って、今後同じような危機に陥った時にまたその人が助けてくれる保証もない。
自身で克服していくしかない。
未来の自分を助けてあげられるのは、今の自分しかいないし、
今の自分を幸か不幸か支えているのは、過去の自分でしかない。
経済的にも、精神的にも、家族からも、組織からも、個人レベルでも、自立は必ず必要になるし、自立することで結局周りの為になることも多い。
そして自立するためには、必ず自助の精神が必要になる。
だからこそ、常に自助の精神を忘れないようにしたい。
全ては未来の自分の為に、をスローガンに。
#本を書く 1.死を基準に考える
大げさだが重要なこと。
与えられた日々はとても貴重なものだが、毎日それが当たり前のように享受されると、そのありがたみを感じることも難しくなっていく。
それほど人間は慣れに弱い。
今を起点に、この与えられた日々がずっと続いていくと考えると、どんなに身を引き締めてもだらだらと不毛な日々を過ごしてしまう。世界のどこかにはそうじゃない人間もいるのかもしれないが、少なくとも俺や俺が見てきた周りの人間はそうだった。
そこで、「死を基準に考える。」という判断基準が有用。
死を基準に考えるとは、平易な言い方に直せば「終わりから考える」「終わりから逆算する」という意味だ。
死ねば体は残らないし、自分の中に保持していた記憶も消える。残るものは、自分が自ら対外的にアウトプットしたものだけだ。
つまり、「状態(ステータス)」ではなく「行動(成果物)」に、「与えられたもの」ではなく「与えたもの」に重点が置かれるようになる。
そうすると、どんどん自分に対する保身がなくなり、自身の望む方向にとって、本質的な言動が増えてくる。
貰うことより与えることが増えれば、与えた分味方も増えていく。
こういう行動は、当たり前だが、自身の保身を優先したり、無条件に何かを与えられ続けている輩からの反発を招く。敵も多く作るだろう。
しかし、死ねば敵も味方もない。つまり敵が、いようがいまいが関係ないのだ。
敵対する人間だって、いじめている相手にとって自分のことが眼中にないようであれば、いじめる活力をなくす。
それでも対立するのは、本当に利害関係が綺麗に対立しているものだけだ。
そういうやつとは、必要とあらば全力で闘えばいい。
どうせ、何かを残そう、何かを成し遂げようとしたときに、闘いからは逃れられないのだから。
#本を書く
出版目的でもなんでもないけど、本を書きたい。
これからこのブログに記事を書くときは、本を書くときときのベースになるような内容にしていこうと思う。
正論をプライベートにも適用するか。
日頃から「で、なんなの?」という気持ちを大事にしてる。
もちろん他人に対してもその意識は必要なんだけど、特に自分に対して。
でもそういう仕事を通じて得たメソッドやマインドセットを、プライベートにも適用するかどうかは非常に難しい。
例えば家族や友人が震災などで死んだとして、「で、なんなの?」と自分に問えば、「頑張ろう」とか「いや別に。」となる。
「家族や友人が死んだことは悲しいことだけど、起きてしまった過去については、考えてもしょうがない。未然に防ぐことはできなかったのか原因を分析して、これからどうするかだけに論点を絞ろう!」
なーーんていうのも、正論なんだけどそういうことじゃないよね。
恋人別れたときとかも同じかも。